お気に召すまま

As You Like It of
Minerva





 コーヒーで咥内を潤し、想はひとつ、息をついた。
 染み渡るように、周りの音がよみがえる。
 エコノミークラスの座席は狭く、人のひしめく気配や熱気は、彼を、日が経っても尚半ば夢の中にいるような状態、長い放心から、うつつへと引き戻していく。JFケネディ国際空港出発からどれほど経ったのか。隣でしきりにはしゃいでいた可奈は、いつの間にか寝息を、息というには少々煩い音を立てていた。
 周りにある雑多さを煩わしくも、心地よくも思いながら、想はひとり過ぎ去った事件と、又再び巡りあう事の出来た、恩人、だろう人との目映い邂逅を思う。
 旅立ったときは、会えるとは思っていなかった。
 想にとって、アニー・クレイナーという女性は、己のせいで二度と見える事のない地に旅立ったという苦い記憶を抜きにしても、かけがえのない、人物であり、目映い存在だった。
 頬に触れた柔らかなぬくもりは、からかいの意思も込められていこそすれ、その実己の行動を麻痺させる仕掛けでもあった、と想は思う。とっさ絡みつく喉から出した、絶対にまたどこかで、という言葉に、彼女の明確な応えはなかったのだから。
 その事実を受け止める彼に必要以上の憂いはなかった。僅かな寂寞はいやに明るい理解に溶け、秋風のような余韻があるばかり。
 ただ。彼は、表情こそ動かなかったものの、心の中でそっと。

アニーさんのいたずらは、ちょっと、刺激が強すぎた。

 頬の感覚に引きずられてか、可奈や親友のロキことシド・グリーン、妹の優らが駆けつけて尚、想はどこかに現実感を置き忘れてきたような感覚が抜けなかった。
 それは、ボストンで一泊し、始業式の関係で観光そっちのけ、優とロキに見送られローガン国際空港からJFケネディ国際空港へ着き、発ち、こうして日本へと向かう、今の今まで続いていた。
 否、実はまだ己は、判然と現実を捕らえ切れていないのかもしれない。
 想はもう一口、紙コップに注がれた時は確かに湯気が上がっていたコーヒーに口をつける。生ぬるいコーヒーは喉を伝い、暖房の所為か厭に火照った頬との対比も明確に食道を落ちていった。落ちた、といっても食道は前後運動で食物を運んでいるため、その表現は正しくなく極端な話うどんを逆立ちで食してもうどんは胃に到達する事がうんぬんかんぬん。
 暖房にしては首の辺りまで痒い火照りに、意味もなく、少し倒された前の席をまっすぐにみつめ、ひょい、と視線だけ天井に向ける。ぐり、ぐりと不自然な眼球運動をしてから、ちらり、と、すぐ左隣を目の端に捕らえた。
 彼の隣、窓を望む事が出来る座席には、可奈がいる。寝こけている。赤味がかった長髪を頭の高い位置で一括りにした髪型のまま眠りに落ちた所為だろう、僅か横向きの体制を取って、すやすや、というには音が過ぎる寝息を、かき、気持ちよさそうに夢の世界へと旅立っている。
 熟睡。
 爆睡。
 想は、頬を緩ませて彼女を見る。隣でぐーすか寝ている人物の意外な行動に、いまさら、本当にいまさらながら、綻んだ。
 不気味な絵葉書を巡る一連の事件は幕引きを迎え、想にかけられていた容疑も、今は交渉人のような事をしているというアニーのおかげなのだろう、一夜の後には晴れていた。
 憂いも特になく、想は可奈を見ている。
 彼女、水原可奈は、恐ろしいほどのパワフルさと体力と野生の勘を併せ持つ、想のクラスメイトである。
 クラスメイト、その言葉に、彼は浮かべていた笑みを僅か別の質のものに移した。なぜそうしてしまったのか、想にも明確なところはまだ出せない。いつぞやに感じた心の迷路、その命題と重なる心境は、彼自身の手で結論を先延ばしにするという解がなされている。
 可奈と、想は、クラスメイトだ。
 立場を表す関係として、その答えに間違いはない。
 可奈と、想は、友達だ。
 この解も、学校の行きや帰り、はたまた時には休日まで行動を共にし、想が水原家で夕飯までご馳走になる間柄は、そう呼んで差し支えないだろう。

 ぐるる、と今にも飛び掛ってきそうな可奈のトラのような迫力の顔が、想の脳裏に蘇る。
 間違いなく殴られる、そう確信した彼は、次の瞬間、彼女の行動に驚かされた。絶対一発頭をなぐられて、心配かけんな! とはすっぱに言われる、その時確かに痛む頭を抱えてしゃがみこむ幻視まで見ていた想は、伸びてきた腕が己の首に回された事に。
 ぐ、と引き寄せられて、柔らかな腕の中へ。

彼女の。

 あちこち駆けずり回っていたのだろう、熱気と僅かな汗のにおいを伴ったぬくもりは、浮ついた思考に輪をかけて、心地よかった。

『無事でよかった!』

 弾んだ息の中繰り出された言葉には、怒気と、僅かに涙の気配もあっただろうか。
 その時の気持ちを、なんと言葉にすればいいのだろう? 想はくすぐったさに苦笑に似た、やわく照れたような笑みを浮かべ、頬をかいた。
 単身、ロキや優と連絡をとっていたにしても、単身、アメリカまで探しに来る。
 可奈という少女が恐ろしく友達思いで情に篤い事を、重々、幾度と巻き込まれた事件や謎の中で知っている彼としても、今回の彼女の行動は、嬉しい。
 殴られると思っていた分、抱きしめられたのは、とても嬉しい事だった。

嬉しいなぁ
嬉しいなァ!

 頭に音符でも舞っていそうな浮かれに暫くうきうきと身を任せていた想は、それも収まると、あきらめたようなため息一つ。今はとなりでぐーすか、女の子、の割りにいびきすらかいて寝入っている可奈をちらりと見、つい先ほどまでの、否、抱擁があってからこれまでの、彼女の異様なはしゃぎっぷりを思い出すと苦笑した。
 どことなく、避けられている気もする。
 ありていに言って、彼を抱きしめてから先、彼女の態度はおかしくなった。

 想は。

 見つめる先の安らかな表情、可奈の左目に赤味を帯びた前髪がかかっている。その髪をのけてやろうと手を伸ばし。

これは、友達にしていいことだろうか?

 行動を止めた。

 空中で、開きかけの掌が、払うに使おうとした小指が、可奈の髪に触れるほんの数ミリの所で止まっている。
 無表情のまま、想の見つめる先で、髪のそばゆさにだろう眉をひそめた可奈は、ふる、と首を邪険に振るった。
 と、上手い具合に瞼にかかった髪が退く。
 格段緩んだ顔で可奈は寝入ったまま。
 空中で止まっていた手をひっこめ、後ろの座席に許しを得ると、想は背もたれを可奈とほぼ同じ高さに下げる。大して心地よくも無い座席に深く沈みこみ、天井を見た。

……保留、かな。

 深く息を吸い、体の力と共に想いを吐き出す。

この嬉しさを彼女に伝えて

 想は思う。

伝えて、彼女の態度が変わるのは得策ではない。

 彼の脳裏には、無邪気に、ガキ大将のように笑う可奈の顔があった。
 その顔が自分に向けられる事を、想は嫌っても、疎ましいとも思っていない。

水原さんと、僕の仲は。

 やさしい顔で左隣を見、何の憂いもなく眠る可奈の様子に、苦笑とも、安堵ともつかない甘い笑みを零す。

このくらいが、ちょうどいい。

 抱擁に関しては、彼女も触れて欲しくない事だろうし。そう結論付けると、襲ってくる眠気に身を委ねる。日本まで後約6時間。エコノミーの狭さに僅か辟易しながら、視界を闇に閉じた。



あなたが変化を望まないのなら、
僕も、そのままで。







 でも眠っている時 たまたま(・・・・)頭がもたれかかる位、許してほしいなぁ。
 夢路を辿る柔らかな思考の中で、彼は、そんな事も思う。

『Q.E.D.証明終了』より。燈馬想+水原可奈でした。
10/04/03(掲載)

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