Are very easy. 女性の髪の感触とはどんなものだろうか。 例えば妹のものは、同じ父母から生まれたのに随分違うことに驚いた。 大学時代は、親友の片腕のそれにも触れたことがある。黒々としたそれが、見た目とはうらはら酷くふわりとしていた事を覚えている。良い匂いもあったかもしれないが、直後にむりくり触らされた親友の髪の感触でよく覚えていない。こちらは、ぐいぐいと手のひらを押さえつけられるものだから感触などあったものでもなく。痛かった。 ふとした拍子だった。 いつもの帰り道、一歩前を歩く水原可奈というクラスメイトはいつものごとく楽しげに今日教室であった事などを話していた。その一歩後ろをこれまたいつものように歩く。彼女の話に耳を傾けつつ、よく話題が続くといつものように関心していたところ。 クラスメイトの運動神経と、運の良さを考えればこと珍しいことが起こった。 「う、わっ」 突然飛び出してきた白黒猫に驚き、可奈が一歩後ろに退いた。 ら、そこに運悪く小石が転がっていた。 結果、退いた先の小石に足裏の均衡を崩され倒れてきた可奈の両肩を、咄嗟抱きとめることになった。 さらりと鼻先を掠め、頬に打ち掛かり流れる。 「あ、ぶなー……あれ八百屋のブチよ。 このごろ飛び出してこないから油断してたわー」 ブチはねえよく飛び出してくんのよね。前なんか車に引かれそうになってたのに構わずちょうちょ追いかけてたりさ。あんまり危ないってんで八百屋のおかみさんが首輪して室内飼い? ってのにしたんだけど、ああやって逃げ出すのよーもー私も何度か捕まえてるんだけどさー逃げ足早いわ捕まえるそばから脱走するわでまったく。 受け止めた背中はそんなことを言いながら離れてゆく。今回は捕まえないんですか? そんなことを聞くと、可奈は振り返り、この先に空地あるっしょ? と猫さながらの笑みになった。ああ猛獣がいる、思い。 さらさら。ふわり。いいにおい。 開けた空地の隅の方、伸びた草に見え隠れする格好で、可奈曰くブチは、何やら背を丸め、こちらに尻尾を向けたまま動かない。その背に近づく怪しい影。夏草伸び放題荒れ放題の空地を、音もなく抜き足差し足。 「ふぎゃ!」 「ほら捕まえたブチ! ダメじゃないまた逃げて!!」 ブチは蟻の巣が好きなのよー変わってるよねーきっと空地の蟻の巣見てるわよ、彼女の読み通り、日ごろから蟻の巣にご執心だという白黒猫は空地のそれにくぎ付けになっていたらしい。 哀れ、後ろから捕まえられ、ふぎゃふぎゃと暴れていた白黒猫は。 「大人しくしろ」 自然の摂理、より力ある猛獣のひとにらみに借りてきたように大人しくなった。恨めしそうな顔でしぶしぶ連行される猫と、猛獣、もとい可奈とに付き合い、帰宅途中に通学路から離れた八百屋に立ち寄る。 まあまあ可奈ちゃんまたブチ見つけてくれたの助かったわあもうこんどというこんどは家の中はかわいそうだって思ってたけどずっと首輪に頑丈な縄でもつけとこうかねえこんのいたずら猫はー。帰り道に偶然見かけたんですよ。無事でなによりです。もう、ブチこうやって大人しくしてるとお前美人さんなのにねー今度は逃げ出しちゃだめだぞ車にひかれたらどうするの。やんややんや。 赤い髪が前をゆく。あ、見て赤とんぼ! 赤く染まった指が指す方を見れば、すい、すいとアキアカネが飛んでいた。秋だねえ、お芋がおいしい季節だよねえブドウもおいしいねえ柿もそろそろ出回るかなもちろん梨もいいしリンゴもおいしいしみかんもいいねえ。別れ際の会話は実に情調もなにもない。 活字が頭に入ってこない。読んでいるのはビットゲンシュタインの哲学書の筈で、どこまでか読んだ記憶のあるもの。なのに、覚えている箇所が見当たらない。ふと辺りが暗いことに気付いた。時計を確認すれは帰宅してから1時間経っている計算。ああリビングに明かりを。本を置いてリモコンを蛍光灯に向ける。 改めて本を手に取り気づいた。 「あ、逆さ…」 奔放に動き、風に遊ぶ茶色のそれが、極上のシルクのように頬を流れていった。 見た目より薄い両肩が両手にすっぽりと収まる。 鼻腔をなでたのは制汗剤の匂いだったのか。 さらさら、ふわり。 想は、呆けたような顔で左頬に手をやり。 うかされた顔でパソコンを立ち上げ、親友からの報告メールに思い至る。 「あ!」 ぽろぽろ思い出す。今日が、小規模だが興味深い学会の開催された日であること。大学時代からの親友であるロキことシド・グリーンがその場からレポートを送ってくれること。 急いで確認すれば、報告メールは二時間ほど前に送られてきていた。あとはすねたメールが一通。急いで返信メールを打ち返しざま報告メールを読む。とても面白いことが書かれている。自分も行けばよかった、思うのに。 極上のシルクが、さらさら、ふわりと。 朝はそれなりに楽しみにしていた事柄を、つい先ほどまで忘れていた。 下校の中ほどまでは覚えていたのに。 想は、無言でもう一度、左頬をなぞった。 |