休日!


Holiday!



Nastiness




 その、健康的に白い肌が、こく、と動いた。
 反り返った曲線が、こく、こくと胃に水分を運んでいる。赤いタンクトップの首もとから覗く鎖骨の付け根も、その下のしっとりとした柔肌も、あわせたように微かな動きを見せる。
 ぷっはー。とばかり腰に手を当て、親父のように麦茶を飲み干し満足げな可奈からパソコン画面に視線を求めた想は、今思いついたように軽く、こう言った。
「あ、水原さん。冷房、強にしときましたから」
 告げれば、わかってるねぇ!と豪快にして機嫌のよい返事が返ってくる。
 袖なしの赤いタンクトップに黒いベスト、太ももの剥き出しになった丈の短いジーンズ姿の可奈は、上機嫌に想を見た。


 それから暫くは、持参したマンガ雑誌やファッション雑誌を読んでいた可奈だったが、ふと、両手足の肌が粟立っていることに気づく。
 冷房が効きすぎている。
 その事を想に告げると、彼はパソコンに向かう手を止め、申し訳なさそうに可奈を見た。
「すみません。温度を上げたいのは山々なんですが、最近購入したコレが殊更熱に弱くて……。」
 見れば、想は夏場だというのに長袖にジーンズという格好をして、これ、と、彼の座る横、新たに増設された箱、恐らくはコンピューターの本体を指差していた。
「なんでしたら、書斎として使っている部屋がありますから、そこなら温度調節も自由ですしそっち移りますか?」
 そう言って、机の引き出しから鍵を取り出す想に。
 可奈は、あっけらと否定を告げた。面食らう想から膝掛けのありかを聞き、下半身にしっかりとそれをかけると、また、彼の向かうパソコンの前、絨毯に寝転んで雑誌を読み始める。
 想は、彼女の様子が気になったものの、手の放せない火急の論文チェックとあって、すぐにそちらに意識を沈ませていった。

 だから、可奈が言った以下のことは、全く頭にない。


 その時間は、少なくとも、可奈の読む雑誌の頁を数枚捲らせ、閉じさせ、眠気を運ぶのに十分だった。
「燈馬君」
 腹に敷いていた筈のクッションに溶けた、甘い声が彼を呼ぶ。
 返事がないことに安堵さえ浮かべながら、可奈は、頬を、頭をうずめる柔らかさの影で目を閉じた。

 緩んだ口元で、そっと。

「燈馬君がパソコンいじる音、なんか、安心すんだよね……。
 ――――。………………・・・・・・・・・・・・・・。
 その音聞いてると………ね……」

 ゆるゆるとした呼吸の音が、静かに生まれては消えてゆく。



 論文の最後の一項目を読み終えて、想は、ほ、と革張りの椅子に背を預けた。
 目頭を押し、ふと、水原さん? 彼女のいる方に目を向ける。
 可奈は、大ぶりな膝掛けを体にかけ、クッションを枕に絨毯にうつ伏せ、眠っているようだった。膝掛けに隠れた体が、すう、すう、と規則正しく微動している。
 想は、少し暗い目で彼女を見、無言で椅子から立ち上がった。眠る可奈のそばに膝を突き、クッションに投げ出された手に、手を重ねる。
「だいぶ、冷えてますね」
 形容しがたい顔で微笑んだ。

 つい最近買ったコンピューターが熱に弱いなどということはない。少なくとも、部屋の冷房を強で保たなくてはならない程弱いと言うことはなかった。なにより、彼は冷却機というものをしっかり持っている。
 こんなに冷やしてしまうつもりはなかった。独白しながら、想はもう一枚、可奈にブランケットをかぶせてやった。

あまり、肌を露出した格好で、ここに来ないでくださいね?


 彼の声なき視線の先、ゆるり、と可奈が寝返りをうつ。






An afternoon nap of Minerva




 ぱらり、ぱらり。可奈は持参したファッション雑誌に目を通していた。
 効きすぎた冷房に冷やされた太ももが、絨毯と柔らかな膝掛けに包まれて温かい。
 燈馬の家のリビングに敷かれた灰色の絨毯は、柔らかく毛足が長い。可奈が日頃こまめに掃除機をかけている為、寝ころんでもなんら支障はなかった。
 それでも固い床に敷かれている分弾力はない。
 うつ伏せ、クッションを胸の下辺りに敷き、肘で上半身を支えながら、可奈はまたページをめくる。

あ、この夏モデル可愛い。へえ?今年はこういうワンピが流行るんだ。
あ、コレなんかカワイイ。今度燈馬君と…。

 ぱらり、ぱらり。可奈は薄くツルツルとした紙のページをめくっていく。
 その音の背後には、常に、時折途切れ、思い出したように続くキーボードの音があった。
 的確に迷いなく途切れ、確信を持って続く。速まりもせず失速もない。
 その音は、不思議と可奈に安心感をもたらす。

事件の時と、一緒だ。

 幸せなまどろみに、とろ、と瞼を落としかけ、可奈は微笑みを浮かべた。
 密かに、彼女はこのリビングに来ることを休日の楽しみとしていた。
 MITきっての秀才である燈馬想、彼が暇な時は一緒にゲームをしたり、出かけの計画を練ったり事件を持ち込んだり、数学、その他の学校の勉強を見てもらったり。
 毎度のことともいえないが、そんな休日の過ごし方は、可奈にえもいわれぬ、色々な意味での充実感をもたらす。
 そして、今のように想が忙しい時。
 的確だと素人目にも分かるキーの音に包まれながら、可奈はひとりごちる。

ああ、しあわせ。

 ふ抜けた顔で、抱え込んだクッションを頭の方に持ってくると、頬をうずめた。間抜けて空気の抜ける音が耳に心地良い。
 彼女にとって、彼がキーボードを打つ音は、彼そのもののよう。事実を浮かび上がらせてくれる、とっても頼りになる。

「燈馬君」

 口元のゆるんだ声は、甘く滴り部屋に響いた。

 キーボードを打つ音は途切れない。

 その事が、可奈は嬉しく、誇らしい。
 想は、己の用事などよりは可奈の事を優先する。想が可奈より何かを優先する時、それは想を頼ってきた相手から課せられる課題、問題の解決を急ぐ際と決まっていた。

 彼は今、彼を必要とする人の為に、真摯に彼の出来る事をやっている。


わたしの。


「燈馬君がパソコンいじる音、なんか、安心すんだよね……」
 夢見心地、彼女はそっと囁いた。頬を、頭を埋めるクッションの柔らかさに、途切れてはまた続けられる音に、至極満足げに、笑む。

どんなに難しいことだって、どんなに不可解なことだって、必ず解決してくれる。

 胸のいっぱいな、手足の先まで、嬉しいのに切ない気持ち。こういう幸せなまどろみの時感じるその感覚に緩く眉をひそめ、彼女は、その感覚は億劫と意識の糸から手を離しかけた。

困ってるとき、絶対助けてくれる。燈馬君に任せておけばもう全部解決。

 幸福感だけを追い。

「その音聞いてると…………ね……」



そのこと、思い出すから…



 絶対的な安心感に包まれ、嬉しくて嬉しくて。
 充足感、満足感に、ぱったり。
 彼女は、かろうじて指先に引っかけていた現実を、彼方に逃した。






A desire for the mental possession by the egoism




 しっとりと汗ばむ肌の、白さが視界に残っている。

 あつかった。
 からだがあつかった。

 自室のベッドに起き上がった想は、そのまま床に足をつけ、ふらり、とキッチンを目指した。Tシャツに短パンという格好でキッチンに入り、電気も点けずに冷蔵庫を開ける。
 広がる薄暗いオレンジの光の中、内部の白い壁の真ん中、ぽつんと置かれた作り置きの麦茶に。

 こく、と上下する、白い喉元を鮮明に思い出した。

 近年の夏は殊更暑い。しっとり汗ばんだ肌が、反り返った喉元が、張り出された双丘が、晒された、鍛え上げられて尚やわい線を描き足首へと落ちていく脚が思い起こされ、昼間の彼を形作っていく。

こうふん、していた。

 論文のチェックも、その時、可奈がたずね来て早々キッチンから麦茶を持ち出し、リビングの入り口、コップで一気に煽った、その時見ていた箇所だけは少しおざなりになっていたと、最終的に読み直しをした所で想はその事に気づいていた。
 白い肌。柔らかく、しっとりとした。

みずはらさんの。

 その熱がいまだ体のうちから抜けず、今の段に至っては暴れだしそう。
 無為に冷やしてしまった健康的な色の手の甲でさえ、触れた感触はあまりに蟲惑的だった。
 ゆるゆると上下する肩口が、色づけられた絹のように柔らかな赤毛の長髪が、間近で見れば見るほど魅惑的な唇が。
 そのまま。

そのまま。

 逆らうように、想は麦茶を取り出しコップに注ぐと一気に煽る。味などそっちのけで、冷たい塊を胃に落とし込む事で容赦なく熱を冷却した。いっそ水でも被ってしまおうか? 冷たすぎるからやらないが。

 想にとって、その熱は、可奈が彼の事をどうみているかを解っている分、無用の長物。
 想自身、可奈にそう思われる事を確かに喜びで迎えているのだから、正に必要のない感情だった。

 可奈の気持ち。その想いを無碍にしたくないと硬く目を閉じ、想は、胃に落としこんだ冷たさを思う。

 獰猛でいてしなやかな虎にも似て煌く、色素の薄い眸に乗せられ、届けられる、その名は。


絶対的な信頼。


 夏の青空に咲く、黄金を持った花に良く似た顔で見つめられる時もある。傍若に振舞われ、時には腕力に物を言わせて問題の、謎の解決を迫られる時もある。
 彼女の行動の根底には、揺るがない期待と信頼が横たわっている。

 想にとってそれは、酷く光栄なことであり。
「だってそれ…水原警部と同じぐらい、頼られてる、てことですよ」
 いや、それ以上かもしれないと、漏れる笑みも肩の震えも、浮かべる暗い笑みですらも、子供のように無邪気だった。

 えも言われぬ、別の欲求を満たす事実。



みずはらさんの、いちばん。



 この確信を確認するたび、彼は言いえぬ心地よさに包まれた。体の隅々、脳内まで支配するものの名。
 その熱は例外なく、彼の中でくすぶっていた情動をも別のものに昇華していく。そんな瑣末な物、と、その価値を貶めてゆく。
 こう認識するのは幾度目だろう? 情動の御し方としてこの方法が健全かは、彼にとって大した問題ではなかった。

 想は、こうしてまたこの夜も、襲ってきた眠気に逆らうとなく、満足げに、自室に戻っていった。


 昇華され、生まれ出たものの名には気づかずに。







雑記+αβです。ありがとうございましたッ!
10/07/24(掲載)