×××が悪い!

Fool mouse.




 薄闇に音もなく白い切片が降り積もる。しんと静まり返った玄関は灰色に沈み、ガラスと焦げ茶のアルミとで格子となった引き戸から、陰鬱な光をタタキと一段高くなった床とに落としていた。横に添えつけられた靴箱の上には、ちょっとしたアンティーク風の時計が、仕掛けの飾りをくるくると回している。床と靴箱の間にある傘立てからは、丁寧に仕舞われた傘が数本、靴箱と一緒に床に長く影を落としている。
 秒針の音も遠く、静寂は蒼く、暗澹と時だけが過ぎ去ってゆく。
 と、その場に、賑やかしい気配が届いた。それはせかせか近づき、騒々しい音、玄関の戸口で服を乱雑に叩く者の影がガラス越し一人、二人写る。軽快な少女の声が高く場に落ち、同時戸口に鍵が差し込まれた。勢い良くガラス張り格子が引き開けられる乱暴な音。
「たっだいまー! って誰も居ないか。
 ちょっと待ってて! タオル持ってくる」
 しゃらりと雪に濡れた色素の薄いポニーテールと、雪に濡れてさらにしんなりとしたスーパーの袋を揺らし、水原可奈は真っ赤なマフラーと紅茶色のダッフルコートの襟元に手をかけつつ後ろの想に振り返った。弾む息は白く凝るが活気に満ちている。頭や肩の濡れを気にした様子もなく、勝手知ったる我が家、短いチェックのスカートから伸びる黒い脚で床を踏む音も雄雄しく、家の中に消えていった。
 ワンテンポ遅れ、玄関の戸が静かに閉められる。戸を閉めた彼は、見事な黒髪の短髪の所々を寒々しく凍らせ、全体的に右側、水色のジーンズの右太ももやらお尻やら、黒いオーバーコートの右腕やらをずぶぬれに、少女よりも酷い出で立ちで玄関に立った。ぶるり、と犬のように体を震わせ、とりあえず右側がびしょぬれのオーバーコートをもたもたと脱ぎに掛かる。濡れた手が悴み、おまけに懐に紙袋を抱えている為思うように脱げない。
 彼は、紙袋を靴箱の上に置こうとし、結局、止め。やっとの事で特に酷く濡れた右の袖口を抜くと、一息。コートを、なるべく乾いた部分が表に出るようにして畳み、またぶるりと肩を震わせた。
「おじゃまします・・・うう、寒い。
 誰も居ないって・・・そういえば、警部とおばさん、出かけてるんでしたっけ・・・?」
 コートを抱え、声にも破棄なくうな垂れる。彼、燈馬想のその上から、ぶわっ、と大きなタオルが被せられた。

「ぅえ? わ、何!」
「ハイハイじっとするじっとする!
 そんな濡れ鼠みたいなナリじゃすぐ風邪引くんだからおとなしくしてろって」

 タタキと一段高くなった床の上、彼と彼女との間に、平地ででさえ少しある高低差を広げ、可奈はタオルを被せた想の、その頭といわず肩やら肩甲骨やらを乱暴に拭いていった。しまいには彼の頭らしき丸みをみぞおちの辺りに両腕で抱え込み、ほどんど絞め技に近くごしごし擦る。
 うわ、ぎゃ、痛い、という、想の意見はハイハイという相槌に全て相殺された。
 タオルを剥がれた後には、艶やかな黒髪の短髪もぐちゃぐちゃ、コートの中に着込んでいた白と緑のセーターもよれた人物が、後生大事に胸元で文庫大の紙袋とオーバーコートを抱え込み、恨めしそうに可奈を見ている。
 彼は、ジト目。水原さんと。
「おし! 上出来! 上出来!
 あーんなびしょぬれじゃ居間に上げるわけ行かないからさ、
 ほい、上って!」
 言いかけ、からからとした声音に響きを取って代わられた。
 想の沈痛をひらりと受け流した可奈は、自分の分の靴を揃えると、試作で作ったプリンあるんだー食べよー、などと言いつつ家の中に戻り居間に入っていく。
 そんな可奈の様子に、想は溜息一つ。おじゃまします、と今一度口に出すと丁寧に誰も居ない玄関でお辞儀をした。靴を脱ぎ、揃えてから、戸の開けられた居間に入っていく。


『コート乾かしなよ』
 という可奈の一言で、彼のコートは今、暖房器具の横の欄間にぶら下がっていた。
 そのコートの持ち主はというと、本当に参った、とプリンも食べ終えて一息、可奈と一緒に入るコタツの机に頭を乗せて渋い顔をしている。長座布団の上、貸して貰った座布団に当てるお尻が痒い。じめじめした心地は快適とは程遠いが、さすがにズボンを乾かすには場所が悪い。悪すぎる。そんな事を思いながら。
 そんなこんなで、時折もじもじ、もぞもぞする彼の様子は知らないふり、可奈はまだプリンを食べしまい、燈馬君鈍いもんねーなどと明後日の方を見た。
「でもさ、なんだってあんな路地裏に居たの?
 本なら、駅向こうの方が大きいとこあるじゃん?」
 ぱた、と思いついたように問う可奈に、想は渋い顔をやめると、それは、と彼女に顔を向ける。
「あの路地裏には、目立たないですけど、小さな古本屋があるんです。
 僕もたまたま見つけた場所なんですけど、小さい所ながら、かなり希少な本に恵まれていまして。
 今日はそこの掘り出し物を見つけに行ってたんですよ」
 その帰りに、盛大にずっこけたって訳か。可奈は、彼が雪道で変な転び方をした一端が自分の声にある事には蓋をして、他人事でそう独白する。
 もっとも、あのときは、可奈も驚いた。
 本日、彼女の父と母とは、前から予定している温泉旅行に出かけていた。可奈はといえば、その旅行が決まった時から、夫婦水入らずで行ってきなよ、と積極的に留守番を申し出ている。
 そして迎えた当日。いざ留守番を、と思っても、一人きりは少し寂しい。少し早めに食材を買い込んで、夕食だけでも豪勢な料理を作ろうと思い立ち、豪勢な物を一人で食べるのはとても勿体無いからと、友人達に召集を掛けてみるものの間が悪く振られに振られ、おまけ。
『済みません。せっかくですけど…僕も用事があるんです』
 現在可奈の目の前、うー、と唸っている朴念仁にも振られていた。
 一人で豪勢にしたってなー。そうだ、誰もいないから新作料理の実験でもしとくか、彼女はそう、想に振られた事が結構堪えている落ち込みなんぞ蹴っ飛ばしたつもりで、意気揚々買い物を終え、行き道では降っていなかったぼた雪に、近道、とばかり、普段は通らないちょっとした路地裏を復路に選んでいる。
 暫くぶりに通る路地裏はしんしんと静寂を纏っていた。復路を急ぐ傍ら、可奈は、あちこち、雪に濡れる緑の葉や赤い実の美しさに周りを見回しながら歩いていた。
 と、小さな川を挟んだ横手、懐に抱えたものに視線を集中させた想が、こちらに気づいた様子もなく歩いてくる。
 そのとき、彼女の中に駆け巡った感情は、驚きと。可奈は思わず持っていたスーパーの袋が落ちる音も盛大に。

『あああああああああ!?』
『ぇ? えぁあ!?』

 みぞれ交じりの道の上、ずべしゃ、という水気を多分に含んだ盛大な音は、彼と彼女の耳に強烈だった。


 その後、現場から近い可奈の家に直行したという経緯を思い出しつつ、口にくわえたスプーンをプラプラ。可奈は、ちら、と想の、コタツにしまわれた両腕と、胸の辺りを見た。スプーンを加えながら、器用に問う。
「ふーん? ……燈馬君の言う希少ってさ」
 可奈の視線を落としている、想の腹の辺りが動いた。と、コタツの上掛けを押しのけて、後生大事にされる紙袋、その全く濡れていない口から、濃い緑の褪せた色合いが顔を出す。
「勿論、数学の専門書です。これもそうなんですよ。」
 そうやって、古本に注ぐ想の視線は輝いていた。
 可奈は、先ほどから感じている胸の辺りのもやもやを、彼から視線を外し、庭の側の障子に逃す事で宥める。少しだけ、むかむかとしていた。せっかく、腕に縒りをかけて夕飯を作ろうと思った。一人じゃなんだから、何人か呼ぼうと思ってた。何人か、の、思い浮かべるメンバーの中で一番比率の大きい想の顔に、苦く顔を歪める。

それに、招待してやったってのに。

 想は、ここにあがってプリンを食べてお茶をして。その間ずっと、件の古本を懐に抱えこんでいた。
 可奈は、その古本がどれだけ珍しい物なのか、知らない。聞こうとする気も起きなかった。
 古本に注がれる想の視線は、本当に純粋に、嬉しそう。

私の料理より、そっちの方が、いいのかよ。

 思ってしまい、余計むかむかする。燈馬想が、こういう人間だという事を、水原可奈という少女は知っていた。彼女は普段は、彼に時折垣間見える数学者としての顔を認めて付き合っている筈だった。こいつはこういう奴。そういう位置づけで、時に連れまわし、どつき、頼りにもしていた。
 口の中に入れるプリンの味はよく判らなくなっていた。奇妙に生暖かいドロドロした物を口に放り込んでいる気さえする。食べかけのプリンってなんでこんなに不味いんだろう? そんな事を考えつつ、可奈は、こてん、とコタツの机に頭を乗せた。
 少し乱れた己の色素の薄い前髪の隙間から、障子にはめ込まれたすりガラス越し、降り続いているだろう雪は良く見えない。コタツに入って縮こまる、脚や前身は暖かいのに、どこかがうら寒かった。何で寒いのかは背中が寒いと思うことにした。分からなかった。
 なんだかなー、と、もう一度、整理のつかない気持ちを独白、可奈は、熱いお茶をもう一杯、とばかり、机から頭を上げて、近くのポットから急須にお湯を注ぐ。
「水原さん」
 横手から掛かった声に、ちらりとそちらを見ると、別段何も考えていなそうな想がいる。そろそろ帰るんかなー帰ってそれ読むんかなー。可奈は、投げやりにそんな事を思い。
「何か、困ってますか?」
 想から発せられた言葉に。


「ネズミが悪いのよ」
「は?」

 思わず、答えていた。唖然とする想の顔を愉快に思いつつ、急須から、ちゃっかり想の分のお茶も継ぎ足す。
 思わぬ事を言われた、そんな顔をした想は少し首をかしげた。
「ねずみ、出るようになったんですか?」
 その、ほんの少しだけ鳩が豆鉄砲を食らったような顔に。
「さぁねぇそこはホレ海よりも谷よりもふかーい訳があんのよ考えんな。
 さって、夕飯のしたくすっかね!
 あんたもせっかく寄ったんだから、何かの縁だ。
 食べてくでしょ?」

 コタツから立ち上がり、可奈は大きく伸びをしてにっこり笑っている。
 想はといえば、今まで何事か悩んでいたらしかった可奈の、打って変わって吹っ切れた様子に。

「はぁ」

 不可解な顔をして、彼女を見上げるばかり。


 ”濡れ鼠”が悪いのよ、ってことだったりします。
(2011/05/14掲載)