おいで

Call.






 今の彼にとって、それらはすべて雑多な事だった。
 自身の暮らすマンション一室に電子ロックで鍵をかける。エレベーターに乗り、ボタンを押し、目的の階に着くと室内プール利用窓口で手続きを済ませた。
 浮かべる愛想笑いも慣れたもの。男性用更衣室へと向かい扉を閉め、手近なロッカーを開けると服に手をかける。
 上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ下着を脱いで水着に着替え脱いだ服を畳み、タオルと携帯だけを無造作に掴むとロッカーの鍵を手首に巻き付け、室内プールへと続く重い扉を押しあけた。
 これらは、彼にとってはなべて等しく雑多なこと。
 鼻をつく塩素の臭いと、湿度の高い空気が彼の肌を撫でる。
 だから強いてこれらの行動の動機をあげるとするならば、うるさい、という感情に全て帰結する。
 水はけの良い素材の感触を足の裏に感じつつ、プールの縁に腰掛けた。
 真夜中と言われる時刻に照る、明るい室内の明るく透き通る、暗い水面に両足を入れる。
 ひんやりとした感覚と、浮遊感に、頭のどこかが冴え渡る錯覚。
 ひとつ、人形のように瞬くと、彼は水に体を沈め、縁から少し離れた所まで進んだ。
 水音が静まった頃、ぽちゃんと仰向けに、深く沈んでゆく。
 水面の音は、くぐもり、湾曲して聞こえた。
 その空間は、無音に近かった。

 彼は、MITきっての天才と謳われた燈馬想は、そこにきてやっと、口の端に自然な笑みを浮かべる。


 静かだった。


やっと、くつろげる。

 安堵の息は胸中だけでこぼれた。
 想は、心底安心した顔で冷たいプールの水に身を任せる。

 何、と言うわけではなかった。ロキことシド・グリーンからのダイレクトメール、その実はウィルスと格闘し終え、一息。メールの内容を、ゼータ関数に関する論文を読んで、しばし。
 急に、想は、周りの音がうるさくてならなくなった。
 一人暮らしの、防音もセキュリティーも万全なマンション一室に、うるさい、と言われる音が生まれにくいと言うことを想はよく知っている。
 しかし、うるさい。
 音もないのに、うるさい。
 数が、脳の中で暴れ出す錯覚がひどく鮮明で、その配列の先に、何かあるかと、彼の脳は既に動き出していた。
 ゼータ関数に関連のある素数を題材にした論文。その思考が、論文の論理が、彼の中でリーマン予想への、難問といわれ、未だかつて解いたもののないパズルを解くパーツとして組み込まれ、新たなパーツを生み出そうとしている。

うるさい。
うるさいうるさい。
うるさい。

 その感覚から逃れるように、またはその感覚をより研ぎすますため、想はこうして、広く深い、水の中を求めた。

 極上のシルクにも似た、冷たい浮遊感は実に心地がよい。手足を伸ばし、背から底へと沈んでゆく。閉じていた瞼を開け、見上げれば、湾曲した室内プール場の輪郭と馬鹿に明るい照明の光がゆらりと揺れて彼へと届いた。白々と暗い都会の空に、照明の開けっぴろげな明るさは良く映える。三日月など霞むほど。
 その、霞んで見えないほど細い三日月の濃淡に重なるように。
 視えた。

 数字が踊る。跳ねる。整然と整列し、形が作られてゆく。

 その感覚が、視覚を通しているものか否かは、彼にとってはどうでも良いこと。思考が脳裏で動きだし、論理を組み上げてゆく。
 並んだ素数の列は、一斉に衣を返しゼータ関数へと変わった。ほぼ等感覚に幅を開け、どこまでも続く数の廊下。一次二次三次に四次元。
 すべての配列が見えるような錯覚は想を圧巻させる。
 虚数の軸と実数の軸。複総数平面に飲み込まれたゼータ関数は一斉にひっくり返り、リーマン予想に関わる論文の知識が、踊り舞い狂い歌う。
 その歌は、リーマン予想に関わる知識を年号ごとに表す、彼の脳が溜めた回想の歌。
 彼にとって、書き表す、という行為は単なる確認作業でしかない。まして、過去の偉人たちが成してきたリーマン予想へのアタックをなぞることなど、造作もない事だった。なぜならそれば、既に道の着いたことであるからに。
 彼の脳はいつでも、情報を正確に引き出す。頭の外に出して辿るまでもなく、つけられた真理への道は、途中で途切れ、または別の事柄に通じていた。

真理が山の頂に見える。見えている。

 だのに、たどり着く道は未だない。そして、真理と呼ばしめる目的地が、果たして真理かも確認のしようがなかった。なぜなら真理の有無は真理への道を捜すことに同意。

 先ほど新たに仕入れた知識が、歌うリーマン予想の知識より一歩前に進みでる。その姿を一別した想は、ついで、静かに一点を指さした。
 新たな知識はその指先の向こうにおとなしく収まり、歌声は消えることがない。

もうひとつ、ふたつ・・・ステップが抜けている。

 光景が、よぎった。
 嗄れた手に持たれた分厚い論文は、無造作にクリップで止められている。


『この論文には新しいアイディアがあり……しかし、完成させるためにはまだまだひらめきが必要だ』


 ぱさ、と。その価値には似つかない音を立て、論文は丸型の小さなテーブルの上に投げ出された。
 直ぐ傍に。
 新しいアイディア。
 その言葉は、想の中に言い知れない渦を作る。知識の歌声に僅か狂気が混ざった。過去、確かに想の中に生まれた渦が、また、重く早く、ぐるぐると動き始める。

知りたい。


知りたい。知りたい…

しりたい!


 ぱっかりと、真理への道が、暗い深淵に開き吸い込まれる錯覚が、彼の神経を麻痺させていった。歌声はいよいよ狂騒を呈しなにを歌っているものか、わめいているものか判別がつかない。
 想の足下、開いた渦の中心に、その暗さと深さとは対照的なほど白い、論文が一束見えている。光さえない闇の中で、一つの救いのように凛然と光るそれは、新たなアイディアの書き記された論の塊。
 びっちりと並ぶ文字の意味は、ここからでは見えない。

新しい、アイディア。

 彼の目の前、その、ページが、ひとりでにめくられてゆく。歌声はわめきにわめきは、無音。
 なにも聞こえずなにも分からない音の洪水の中、想は賢明に目を凝らし、その論文の中身を探ろうとした。
 けれども、見えない。見えるわけがない。過去に仕入れた知識の檻の中に、その知識はないのだから。

新しいパーツだ。

 それは、いまだ誰も解く事の出来ないパズルを解くための、新しいパーツに他ならない。


『レフラに全てを捨てさせた論文……。
その先には「不死」が……』


 老いて尚、爛々と輝く眸が、彼を真っ直ぐに見ている。
 その老人の、ミンツ教授の言葉に、想は今又、確かに揺れ動いた。数学を志す者にとって、その名は、堪らなく、蟲惑的。



イモータリティー……不滅の……いのち……



 いつの間にか、想は今いる場所から、一歩、その暗闇へと歩を進めていた。論文に伸びる手が、良く見慣れた己のそれだと分かっていても、ゆっくりと確実に、想は、彼にとっての新たなパーツに手を伸ばしていく。


『どうした? 目の前に真理への入口があるぞ』


そうだ、確かにあの時、目の前には真新しいパーツが、この、難問にして絶対のパズルを解けるかもしれない鍵が、あった。


『君もそれを覗きたかったんだろ?』


そう。僕はあの時、確かに真相を知りたかった。
レフラ博士の残した、メッセージを……僕は、



 彼は、静かに、思いついた。


今からでも遅くない。


 連絡先は知っている。ミンツ教授に連絡を取ろう。その彼の思いつきに、知識の声が、賛同を高らかに歌いあげる。
 想は、目を開き、プールの底から体を起こした。

そうだ、連絡を取ろう。……ミューズの囁きを、その声を僕も。

 そのパーツを組み込めば、難解なこのパズルを解くことができるかもしれない。
 その衝動に突き動かされ、彼の体はついにプールの底から起き上がる。不安定な姿勢のまま、水面を。





『燈馬君』





 ぽつ、と生まれた声に、想は振り向いた。
 知識の洪水は聞こえない。
 無音。

 無音のそのただ中に、佇む少女の姿があった。
 普段の快活さはどこへやら。不安げに揺れる眸が、ひたと、彼を見つめている。


 はっとしたように、想は、いつのまにつぶっていたのかも定かでない目を開いた。拍子に鼻から吸い込んでしまった水に呼吸の苦しさを覚え慌てて水面へ浮上する。絡みつく水を重く感じ、少しおぼれかけながらもプールの縁にたどり着くと、切れる息と押さえきれない衝動にひどくせき込んだ。
 びっくりした拍子に、水を飲んだらしい。のどの焼け付くような痛みに視界をゆがめ、異物を排出しようとする器官の動きに従い、せきを繰り返す。

 不快と惨めが混ざった音がようやくやんだ頃、ほ、と。一息。
 彼の頭の片隅で、水底の思考が、あっけなく整理されてしまい込まれた、音がした。

 ぼんやりとした心地で、想はプールの縁に腕を組み、頭を乗せる。水に浸かる体は、水面の好きにたゆたわせ、冷えた二の腕の体温を頬で感じとり、吐いた息に目を閉じた。暗闇にはほど遠い、照明の明るさに透ける黒が視界を満たす。
 こみ上げるおかしさに、自然と頬がゆるんだ。


『燈馬君』


 声の響きは、ひどく寂しげに揺れていた。
 すがるような、不安な眸は不満そうでさえある。

みずはらさん。

 動かした唇から息ともつかない音がこぼれる。声になりきらないその音に、しかし想は満足げに口の端を持ち上げた。

 自由奔放気ままに振る舞い、生命の輝きそのもののように喜び、笑う、そんな彼女が、それとは真逆の顔をして己を呼んだ。


『燈馬君』
そんな顔をされたら。


 だんだんと締まりがなくなってゆく口元を手で隠し、苦笑のような表情に取り繕う想の耳に、かすかな振動音が届く。急に感じた気恥ずかしさにそっぽを向いてそちらを見やれば、プールサイドの机に置いておいた携帯が、振動音と呼応して規則正しくランプを点滅させている。
 点滅する光の色から電話かメールかを読みとった想は、さっぱりした顔に倦怠を混ぜて、勢い良くプールから体を引き上げた。プールサイドのテーブルに近寄り、メール受信を知らせる携帯を開き。

 吹き出した。

 そのままくつくつと肩をふるわせ、忍び笑いに腹筋を痛める。失礼だと笑いを収めようと努力し、次の瞬間にはさらに大きな音でまた吹き出す。
 届いたメールの差出人は。

 ひとしきり、なぜそんなにおかしいのか自分でも疑問に思うほど笑いこけた後、想は、彼女からのメールの内容を確認し、目下回想のど真ん中にあった少女、人情味にも篤いがその分暴力にも篤い、虎によく似た目をする知人、水原可奈が行きたがっていたお店の話を思い出した。
 メールの文面は、いかにも明日は暇だろうと決めつけている。
 その事に想は苦笑し、その心地が嫌でない己を自覚すると、あきれと嬉しさを混ぜたような顔で返信の文面を打ちこんだ。
 そしてもう一度、彼女の心配そうな顔に思いを馳せる。
 不安でいて不満そうな顔、声。それ以上言葉がないぶん、告げたいものを如実に表すその。


いかないで、といいたげな眸。


 想は、視線をさまよわせる。自然緩む頬に戸惑い、沸き上がる気持ちの温かさに、困った顔で、一言。
「だいじょうぶです。」
 声にした意志は、彼の耳朶に消え更なる自覚を呼び起こす。頭の片隅では、だだっ子のように、未だ解かれないパズルを解きたいと、欲求が、声が疼いていた。その声を確かに受け止めた想は、大丈夫、とまた一つ、つぶやいた。
 誰にと問うまでもなく、にっこりと、手元の携帯に、その先にいる彼女に向けて言い切る。

「あちら側には、行きません。」

 彼の耳に、周りの音がよみがえる。それはあながち、錯覚ではなかったのかもしれない。

 言い切り、余った勢いに乗せて彼は、脳裏の過去の彼女へと、そしてメールの文面へと、意識を向けた。


…………そんなに、心配ですか?


 からかうような声で、回想の中の、不満げな彼女に問いかけた。

 彼の胸中の相手、水原可奈は、彼が今のいままで、憑かれたように素数とゼータ関数の先にある、彼の大学時代の研究テーマにして絶対の難問、リーマン予想への考察を求めるあまり静寂を欲していたことなど知る由もない。
 数の世界に魅了され、たまらない引力に、声なき声に突き動かされて、かつては諦めた論文の内容を知りたいと願ったことなど、夢にも。

 それでも。

 それでも、想にとって、あちら側へと進む己の名を呼んだ声は、そして今手元に届けられたメールは、彼を呼び止める以外のなにでもない。

 過去の、あのときでさえ、たまらなく嬉しかったのに。
 想は思う。



たまらなく引力があったのに。



 所詮、偶然。あるいは、彼女のきまぐれ。それでも。
今このタイミングで、彼女からメールが送られてくるだなんて。







「うれしいなァ・・・」






 自分で生んだ言葉が余りに幸せそうな響きに満ちていて、彼は、はたと恥ずかしさを実感した。誤魔化すように返信を確認し、了承の意志を簡潔に伝えたそれを送信。さっぱりとした顔で更衣室へと足を向ける。

 常識はずれの時間帯に、深い水底の静寂を、数の世界を浮遊した、その熱は、欲求は、いまだ彼の腹の奥底にあった。けれどそれらは、彼が消えてしまったと思うほどには小さく、些細なもの。

 想は、不必要に冷えた体にタオルを巻き、来たときとは逆の手順を踏み終え、受付に挨拶を済ませると自室へと引き返した。乾いた温かな服の感覚をこそばゆく感じつつ、エレベーターを降り、所有する部屋へと歩き出す。
 と、ジーンズのポケットに入れた携帯から、振動が伝わってくる。取り出し相手を確認すれば。

《あ、もしもし燈馬君? 明日の予定のことなんだけどさ》

 受話器から聞こえてくる、明るい、明るい声。
 視覚を閉じ、歩調も止め、安堵さえ浮かべながら。

 彼は彼女に。








原作23巻・アナザーワールドネタでした。
10/06/27(掲載)

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