貴方を喜ばせたい

I want to delight you.





「水原さん!」
 黒いタキシードを着た燈馬君が子供のような笑顔でそう言った。右手に銀色の、四角い、あれはトロフィー? を握り、三段位高く広い壇上の奥から、一足飛びに、といっても実際は二、三歩余計に駆け寄ってくる。
「おめでとう燈馬君!」
 何がおめでたいんだかよく分からないが、凄く嬉しそうな声で私は言った。周りに渦巻く拍手の音に負けないように。蒼い壇上には焦げ茶の卓が置かれ、その横に立つ、随分と年配のおじいさんも穏やかな顔で拍手を送っている。その奥に控える人も。

私たちの周りの人はみんな正装で、拍手を送っている。そう。


燈馬君に。


 割れんばかりの拍手の中、心底、心底嬉しそうな笑みで、燈馬君が私の、銀色の長い手袋を嵌めた手を取った。私も銀色のドレスを着ている。正装だ。
 周りの雰囲気が、変わった? 一旦途切れた拍手の音は、なんだか今度は私にも注がれているような? あれ?
 燈馬君はちょっと目を開くと、辺りを見渡し、首をかしげ、又私を見た。ちょっと、そんなにじっと見んなって。
 何よ、祝われてるのは燈馬君なんだよ? 稀代の難問、リーマン予想を解いてさ、それで。

 そうだ、燈馬君はリーマン予想を解いた。
 リーマン予想ってのは、燈馬君に一生懸命説明してもらったけど、ロキの言った賞金の事しか覚えてないや。

 でも、凄い事だ。ああ、あれ、あ。そうか。

 燈馬君は、私を見つめている。繋がれた手が、その熱が、手袋越しなのに凄く気恥ずかしい。目の前の燈馬君を殴って自分の動揺を殺そうか、そんな事が頭の片隅をよぎった直後。
「水原さん」
 呼びかけられた。拍手のさなかなのに、燈馬君の声はよく通って聞こえる。

 燈馬君は。

 体が急に温かさで覆われる。剥き出しになった右の肩口に温かな息がかかった。背の皮膚に皮膚が触れる感触がくすぐったい。でも。

 ぎゅうう、と抱きしめられて、息が止まった。
 わあ! と会場が盛り上がる音。

 うわ! はっずかし!! と思うのに、燈馬君の体温があまりに温かくて心地よくて、私は、この体勢を抜け出す事が出来ない。視線はさまよい、壇上の先、掲げられた銀のマークをとらえた。
 フィールズ賞を象徴するそれは、青色の壁の高く、高く、厳かに、掲げられている。

「フィールズ賞受賞、おめでとう! 燈馬君!!」

 言葉が勝手に漏れた。

 そうだ、燈馬君はフィールズ賞を取った。

 かみ締めるように、私は、嬉しそうに笑う燈馬君の背に腕を回し、抱きついている燈馬君を見た。

 私の肩から顔をあげ、こちらを振り向いた燈馬君は、褒められて嬉しくてたまらないような、無邪気な笑みを浮かべている。




「みずはらさん・・・」

 その、こえが。





 電子音が一際高くその部屋に響き渡った。
 畳の上にベッドが置かれた和洋折衷の部屋の、水色の布団の中から赤いパジャマの腕を出し、可奈は愛用の赤い目覚まし時計に一発こぶしを見舞った。それでも止まない音に、煩い、と流した赤毛の髪も乱暴に飛び起きる。
 畳に転がった目覚まし時計をひっつかむと、今度こそ銀のスイッチを確実に押、潰した。

 外気の冷たさに布団でふやかされた体温が急激に奪われてゆく。一月半ばの朝は、すぐさま手先が悴み、部屋で吐く息が白くなるほどには寒かった。

 普段ならばその寒さにかこつけて起床の準備に取り掛かる可奈は、今朝だけは、未だ顔を洗う気にもならず大きく伸びたその勢いのまま、拳を真っ白な愛用枕に一発、豪快に叩き込んだ。
 空気の抜ける音より乱暴な破裂音に、破いたかも? 等とどこかで思いながら、ぼそりと呟く。
「なんつー夢見てるだ、私は」
 口に出せば出した分、顔は火照りを帯びてゆく。カッカと熱くなる頬と比例するように鼓動を刻む心臓にへんな痛みを覚え、気恥ずかしい何かを散らすよう愛用枕に次々と拳を叩き込んでいった。
 一発二発三発四発…、いつものように枕の内容物が隅から少し顔を出した辺りで手を止め、そのまま顔面から突っ込む。
 渦巻く恥ずかしさに耐えるよう、口を真一文字に結んだ。
 まとわりつく赤毛の長髪がこそばゆいが、顔を上げる気力はまだわかない。かといってもう一度寝なおすのは、頭ばかり妙に覚醒した今では少々難しい。
 そうしていると、下の階から、母や父の気配が聞こえてくる。本日は父も非番で、朝から母に世話を焼かれているらしい。タイミングよく目覚めたみたい。もうすぐ朝ごはんだな。

 可奈は、ふ、と息をつき、静かに上体を起こした。ベッドの上で両足を左右に広げ伏せて座り込む。

 夢の中で見た、燈馬想の笑顔を思い出した。
 彼は、酷く嬉しそうだった。その顔に、可奈は心の底が温まるのを感じた。今までの想の笑った顔を幾つも幾つも思い出し、緩む口元を笑顔に綻ばせる。
「へへ」
 人知れず、変な声が漏れた。

『嬉しいなァ!』

 出会った頃に良く見た、素直すぎる笑顔も、この頃見せる、はにかんだ顔も、気を使ってくれた優しい笑みも。


 可奈は随分と温まった心のまま、満面に笑みを広げる。
「ひひ」
 そして、充電中の携帯を手に取った。




 何という訳ではない。彼の自室に彼以外の者が立ち入った形跡はなく、正しく、事実もない。強いて言えばそれは、彼が海外で長い事一人暮らしをしている中で培われた、防衛本能に近いものだった。
 想は人の動き回る気配に目覚めた。
 良く見慣れた己の部屋の、総じて地味な色で整然と構成された空間を一通り見渡し、ついで息を殺すようにベッドから床へと滑り降りる。敷いた灰色の絨毯に足音を殺し、手の動きだけで携帯を取ると音もなく廊下へ出た。
 一人暮らしの、既に十一時と半刻は回っている時刻とはいえ、己のテリトリーに他人の気配を感じるのは余り宜しい気分ではない。セキュリティーは万全のはずだけど、等と考えつつ、身の安全を確保するため玄関へと慎重に歩を進めてゆく。
 人の気配は、キッチンの辺りから。
 その辺りで特に慎重に、足音を殺し目的地へ進む想は、見えたタタキの己の靴の横、見慣れた女性用のブーツを見つけた途端、何か思う間もなくぞんざいにキッチンへ駆け込んだ。
「よ! おはよう!」
 目を真ん丸くかっぴらいて立ち尽くす想に、明るい声がかかる。黄色いタートルネックセーターに灰色の冬用スカートといういでたちの可奈がエプロンをつけて、準備良く買い込まれた白菜を持ち上げていた。キッチンに置かれた物置台には近くのスーパーのロゴが入った袋が二つ置かれている。その中からは、丈の長い葱などがひょっこり顔を出していた。
 事態を認識し、彼は脱力。
「お、驚かせないで下さいよ……。」
 なんとも情けない声、寝起きで整わない黒髪のまま、パジャマ姿で冷たいフローリングの床にへたり込んだ。
 そんな彼に、可奈は怪訝な顔をした。
「あれ? メール行ってない?」
 彼女の言葉に、想は手に握ったまま見向きもしなかった携帯に視線を向ける。確かに、メール未開封の印が出ている。開けばアドレスの所に“水原さん”の文字。内容は、今日行くよ。と。
 彼が彼女に事実を告げると、じゃあ問題ないじゃん? と明るい返事が返ってきた。

 彼にとってここに居るのが、水原さん、である以上、鍵は、と聞くのも馬鹿らしい。
 なぜならば、彼女はこのマンションの管理人と大変仲が良く、信頼を勝ち得ているという事実がある。
 知れず漏れたため息の内容が、安堵と呆れ、どちらをより多く含んでいるか。当の想にも判別は難しかった。

 己のテリトリーに侵入されているにもかかわらず、どことなく嬉しい気分なのも。

 うなだれる想の気などしらず、可奈は楽しそうにうそぶいく。
「燈馬君どーせろくなもん食べてないんじゃないかと思って、この心優しい可奈ちゃんがご飯を作りに来てあげたのよ! 冷蔵庫ン中見たら案の定大したもん入ってないし。
 ほーんと、こんな良いクラスメイト居ないってーの。
 私ったらなんッて友達思い!!」
 彼に背をむけ、買ってきた野菜を水洗いした可奈は一人機嫌よく頷くと、お昼はねー、と料理の手を進めながらあれよあれよと品目を挙げてゆく。
 そして最後、満面の笑みで、クリスマス楽しかったね! と想を振り向いた。

 クリスマス、という単語に、彼の肩が、ぴくり、と動く。

 去年の大晦日も、又、水原家の大掃除の手伝いで問答無用、というより人間が酸素を必要とするように自然に、潰された。正直、やりたい事があった彼としては余り喜ぶべき毎年の慣習でもないが、しかしその後水原家でご馳走になった夕食は美味しかったし、可奈と出かけた初詣も、何事もなく、楽しく過ごす事が出来た。
 彼は、己の住まうマンションへの帰路が、随分淋しく感じたことを覚えている。
 お正月も、どこへどこへと遊びや福袋漁りに連れ出されたが、それはそれで楽しいと、彼は感じた。
 映画を見て食事をして、水原さんとはなんだかんだと話題が続く。彼は彼女と、共に行動することを苦痛と思ったことは無い。
 学校でも。休日でも。

 想は、クリスマス、という単語に、比較的真新しい騒動を思い浮かべ、自然重くなる気持ちを隠しもせずに答えた。
「いいえ。大変でした。
 ……ほんとにもう水原さんの好奇心はいつもの事なんですけど、巻き込む前に一言あっても良いんじゃないですか?」
 心底疲れたような声には、意識のない不満が滲む。
 言葉を発してからその事に気付いた想はしかし、結局はもう少し不満を上乗せして伝えることを決めた。
 彼の声に、包丁の手を休めるでもなく、可奈は事も無げに。

「そりゃ、言ったら燈馬君逃げんじゃん」
「逃げても巻き込む人がよく言います。」

 間髪いれず返す想は、言葉の大部分を愚痴に傾いた文句を、ぼろり。
「…だいたい。だいたいです水原さん。
 どうしたってまた、あの人たちに関わろうなんて思ったんです?
 到底賢い判断だとは思えませんし、関わるなんて言う少し前まで関わりたくないって態度とってたのに、なんでまた、いきなり…?」
 彼の寝起きはそれほど悪いものではない。ただ、彼の生活習慣は常に正常ではなかった。
 昨夜はMIT時代の友人から急なプログラミングチェックを頼まれ、就寝出来たのは本日朝日が昇ってから。
 僅かな睡眠時間は確実に彼の精神を圧迫していた。少々言いすぎだろう文句の列は、時折途切れ、未練たらしくも又続く。
「何度も言いますけど、っていうか言った傍から毎回無視されてますけどそれでも言いうんですが!
 ……あの人たちに関わるなんて、百害あっても一利」
 おまけに、去年のクリスマスの出来事は、彼の腑に落ちなかった。彼は始めて脚本作りをした。友好関係も広まり、トラブルも解消し、劇も成功した。いい事尽くめ。そうだろうか? 
 想は、楽しさより疲れの方が勝って感じられる分、到底そう思えない。

 水原さんは嫌がらせまでされた。彼女だから無事なものの、普通であれば怪我は免れない事までされたではないか。
 水原さんはお歳暮もクリスマスプレゼントも誰かに贈っている。恐らくは家族に。それは別に彼女の勝手だ。僕だって彼女には、真珠の首飾り位しか送った事が無い。
ただ。


 ただそういう話を、僕に振るのは。


 ぐちぐちぐちぐち。
 文句を垂れる想に、可奈は首を傾げる。

「っかしーなぁ…」

 彼女の声にも不満が滲んでいた。
 未だフローリングに座り込んだままの想は顔を上げ、己を見ている可奈とほぼ同じ表情で聞き返す。
「何がです?」
 声には僅かにドス。
 あまり態度宜しくなく質問する想に、可奈は怪訝を通り越した不可解そうな顔で聞き返した。


「燈馬君って数学者でしょ?」
「はあ? まあ、大学時代はゼータ関数を専攻してましたしそう取って頂いて構いませんけど…」


 質問に質問が返される。話のかみ合わなさを感じつつ、想は事実を答え、最後の方は言葉を濁した。
 可奈は続けて。


「よね? なのに、なーんか……思ってたのと違うなーって。」



 どうやら結論を言ったらしい可奈の意図が、想には見えなかった。
 もう少しヒントを、と彼は、やはり不満が乗った問いを発する。
「なぜ、なのに、が出てくるのか皆目検討もつかないんですが。
 ……そもそも、思ってたって」
 水原さんは、あのクリスマス騒動に何がしか考えがあったのだろうか? そんな事を思い始めた矢先。

「だってさ、数学者って難問解くの好きなんだろ?」

 可奈が、答えた。ごく自然に、こともなげに、当然と言わんばかりに。

 その言葉で、想の中に彼女の意図が浮かび上がる。

 ミステリー同好会の面々が加わった時点で、その出来事は騒動へと変貌する。それはもう自然の摂理のように予定済みであり、客観的事実から物事を判断する想でさえ、この事実だけは経験則で疑うことはない。
 外れたことも哀しいかな、一度もなかった。
 そんな面々の関わる騒動は、難しい問題、難問と捉える事が出来る。
 クリスマス前のあの登校時に、そんなトラブルメーカー達は演劇部に関わっていた。状況は明らかに面倒くさそうな方向へ転がっているように見え、これからもっと転がり落ちるだろう事は簡単に想像がつく。
 だからこそ、可奈も想を連れて渦中に飛び込んだ。

 ミステリー同好会が関わった事象は、難問へと変貌を遂げる。

 事実、劇の終わった帰り道、可奈は上機嫌にこう答えている。突如含み笑いをした彼女をいぶかしむ彼に、いいものがただで手に入った、と笑った。彼が更に聞き返せば。


『なーに
 お世話になっている人へのお歳暮よ』


 想は、確かに、彼女から贈り物を貰っていた。時期的には、お歳暮というよりクリスマスプレゼントと言ったほうがしっくり来るだろうそれは、大変分かりづらい、難問好きへ特注の。

 ぱちり、と。想は、今まで当てはめる事ができなかったパズルのピースが、あるべき所へ収まった幻覚を見た。



ああ、僕の為に。



 唇から、言葉が零れる。

「そう、ですね」
「ん?」

 きょとん、としている可奈に、想は、今までの重い気持ちが嘘のような、朗らかな笑みを向けた。楽しかったです、と言う声は、こころなし、明るい色彩を持って響く。
 そんな想に、可奈はちょっと目を見張り目元に朱を刷いたが、すぐさまガキ大将のような笑みでその色を潰すと、ご機嫌に昼食の準備に戻った。


 彼女の浮かれた背をじっとみつめる、想は。




「みずはらさん……」




 しみじみと響いた言葉に、んー? と返事が返る。

『びっくりした?』

 黒法子万十との対決の時、黒法子側についていた事を明かした可奈は、楽しげに想へ問うた。
 驚いてみたい、といった想の言葉を受けて彼女がとった行動に、彼はこの時、胸のそこから湧き上がる温かさに確かに感動している。
 そして、去年のクリスマス騒動の終わりにも。

『結構楽しかったね!』

 笑いながら、可奈はそう言った。
 彼女は、彼を引っ張って自ら飛び込んだ難問を楽しんでいたようだ。あるいは“難問好き”がこの難問を解くのを楽しみにしていた、のかもしれない。
 想はそんな事を考え。

「顔、洗ってきたら、僕も手伝いますね」
 既に温まったフローリングから立ち上がり、洗面台へと足を進める。後ろから、もう直ぐ出来るからいいよ、という声が追いかけてきたが、それには答えない。



……ハグしたい、です。



…………後が恐いからしないけど。

 浮かんだ想いには口も思考も噤み、人知れず、嬉しくてどうしようもない笑みを浮かべた。




 昼食も楽しく食べ終え、まったりとお茶を楽しむその中で、可奈は、目の前でにこにことしている想を見た。夢の中で間近で見た笑顔に良く似た、実に嬉しそうな想の様子に綻ぶ頬を素直に緩ませる。
 緩ませ、いたずらの上手くいった子供のような、無邪気な顔でお茶を一口。

 夢の中で見た彼の嬉しそうな顔。目の前にある笑顔。


燈馬君の、喜んだ顔!


「へへへッ」



 想は気づいて変な顔をするが、可奈は、湯飲みの影で声を殺せずにいる。



Because,
(だって)
Because, I like your smile.
(だってあなたの笑顔が好きだから)






Is there a complaint?
(何か文句ある?)


原作35巻で、個人的には、燈馬には可奈の真意に気づいて欲しかった!
10/05/09(掲載)

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