ざあざあ

Oh…!





 過去か未来か現在か果たして現実でさえあるのだろうか。
 想は、一面のススキ野原に居た。さわさわと風に揺られ、腕や体と言わず頬をなで過ぎてゆく白い穂に、ここはどこだろうか、と具体的な地名の探れる物を探す。遠くに山を見ようとし、中天に天道の高さを求め。
 けれど、見渡しても見渡しても、辺りにはススキの葉や穂が広がるばかり。ススキを掻き分け視界を幾分取った所で、山どころか枯れ木の一本も見当たらない。天道は硬く雲に覆われ、薄曇りの朝独特の、暗い金色が漂っていた。
 天道を望めない以上、そこから時間を計ることは難しい。朝か、昼か夕か。たそかれ、かはたれ。
 温かいとも、冷たいともつかぬ風に、ススキの穂がざわりと揺れる。
 ざわざわ、ざあざあ。
 想の目の前、徐々に風は吹きすさび、頬や腕を撫でる白い穂は、撫で叩くようにちりりと痛みを伴いすぎるようになった。
 風の酷さに天空の雲は早足で流れる。いかに待てど、天道が見えることはない。
 
 ふと、彼は、この場に連れ人を伴っていた事を思い出した。思い出す以上は続くべき記憶があるはずだが、認識は唐突で、連れ人の、その事柄に通じる過去はちらとも浮かんでこない。
 不思議なことに、その認識に相違があるとは、彼の明晰な頭脳をもってしても思い当たらず。
 脳裏に思い描けば、色素の薄い艶髪が、視界に長く鮮やかな光の稜線を伴って閃く。
 振り向く彼女は、暴力的に口角を吊り上げ、どこからその自信が来るのか、野生動物のきらめきを眸に宿して笑った。
 天使をとっくに通り越し、悪魔のように、にっかと開いた口から力強い声が。
 想は、連れ人の名を口に出した。
 声は風に掻き消え、自身で発しているのにもかかわらず認識に上ることはない。いわんや、辺りに響く筈もない。
 その事に酷く胸を突かれ、気づけば彼は、もう一度同じ名を繰り返す。
 もう一度。
「」
 声は響かない。微か、ほんの微か、さん、と言う敬称のみが耳に残るばかり。
 ざあざあ、どうどうと風は吹き荒れる。すすきの穂は痛い。頬を過ぎる熱は赤を伴っていた。
 何に対抗するか、吸い込んだ空気はからからに乾いて咥内に痛みを齎す。
 それでも、
 もう一度。



「水原さんッ!!!」
「ぅぇあえッ!?
 い、いきなりなに大声だしとんじゃこのぼけぇ!!」

 恐ろしく響いた自分の声と、それに被るような、良く聞きなれた女性の声が、想の耳をつんざいた。
 と、次の瞬間には、岩でもあたったかと思うほどの衝撃が脳天に突き刺さる。
「ぃっ」
 思わず漏れた声は、押しつぶされて大して響かない。
 そこで、彼は初めて、暗い屋内の影をバックに、悩ましげな稜線を描き仁王立ちする白い脚に気がついた。誇りっぽい室内、下階へ続く階段が横手に見える。天窓からの光は薄暗く、胡坐をかいた上に広げた数論書の英文字は判別がつけ辛い。蘇る記憶。この場がどこで、今が一日の何と呼ばれる時刻か。
 そんな事を頭の片隅、相変わらず目前にある、見惚れるような脚線美を上に辿ってゆくと、太ももから先さえ容易に見えそうな制服のスカートが微かに揺れた。構わず上へと辿ってゆく。前かがみに、否、彼に向かって突き出される上半身、白いワイシャツに、しなやかな赤いリボンの首元。実力に反し、見た目は薄い肩口にさらさらと色素の薄い長髪が流れる。
 その動きに気をとられつつ、ほんの鼻先、怒ったような顔と眸をかち合わせ。
 「みずはら、さん?」
 声は間抜けに響いた。
 辺りには、土砂降り、にふさわしい音が途切れることはない。
 それは、そうだ、と。彼は一人得心を得る。にわか雨は土砂降りになったんだ、と。同時に、目の前で仁王立ちする可奈の姿に、己の目的を思い出した。

「部活、終わったんですか?」
「そうだよ。
 ったく! うつらうつらしてたから驚かせてやろうと思ったのに」
 
 登校後、いつものごとく放課後までを屋上で過ごしていた想は、にわかに降って来た雨に、屋内、といっても屋上に続くドアのすぐ近く、外からの採光が望める場に避難した。携帯を確認すれば、丁度可奈が部活に励んでいる時間。
「…………」

 想と可奈とは、何、という事がなくとも下校を共にしている。
 いつからそうなのか、登校は別々でも、下校は、どちらかが言い出さない限りは一緒に帰る。想は内心、一緒に帰らない日の方が、内心、落ち着かない。それは何か、があるということに他ならず、その内容が、可奈のおせっかいから生じるものか、可奈のいたずらから生じるものか。ともかく、彼の生活の殆どは、可奈、水原さん、と彼が呼ぶ、水原可奈という少女の都合で出来ていた。それを、彼、燈馬想は否定しない。拒絶しない。げんなり、ぐったりする事はあっても、彼は彼女を、終ぞ見捨てる事は。その事実には、彼自身、疑問すら覚えていなかった。
 本日も、想は、まるで生まれたての雛鳥のような絶対さで可奈を待っていた。
 屋上から離れると彼女が見つけにくいかな、と思った事まで思い出し、目の前の可奈の顔が、微かに紅潮している事に気がつく。息切れは特にないように見受けられる為、余計、不自然な赤味が引っかかる。
 その色は、彼の視界を超え、意識に鮮やか。
 が、訪ねる事は、可奈のトラの様な眼力に憚られた。元気な時も生き生きと輝く薄い色の眸は、いまも尚、怒りに生き生きと、ぎらついている。
「ったく……おどろかせんなッ!」
 おためごかしとばかりもう一度降って来た拳骨に、その痛みを問答無用で受けつつ、彼は涙目ながら、大声はそんなに怒ることだろうか、疑問符を浮かべるばかり。

 怒れる可奈の目の中に、驚きと焦りとが混じっている事に、彼は気付かなかった。


 普段は聞こえてくる威勢のいい文句が飛んでこない事に、可奈は、ちょ、とだけ、俯く想の顔を覗き込んだ。涙目ながら、子供のように不思議そうな想の表情に、珍しさ半分、少々やりすぎただろうか、と彼の黒い髪の旋毛の辺りを覗き込んでみる。微かに腫れている。まあ放っておいても治るかな、そんなことを言い訳のように宙に思い、そこはかとなく感じる罪悪感に知らん振りを決めた。
 彼女には言い分があった。文字通り、驚いた、という絶対的な言い分が。

『おおっ…とぉ?』

 部活も終わり、さて燈馬君を迎えにいくかな、と。可奈は己の行動に特に疑問もなく、学校の屋上を目指して階段を上っていった。
 部活で疲れているとはいえ、可奈にとっては階段昇りなど運動ですらない。聞こえてくる雨足は徐々に激しさを増している事を気に止めつつ、燈馬君はどこに避難しているだろうか。屋上近くにいなかったら教室かな? などと、彼女もまた、彼と下校する事に一片の疑問も抱かず、あっという間に屋上へ抜けるドアのある踊り場を視界に捕らえ。
 と、ドアの隅、もたれかかる様にしてお目当ての人物が胡坐をかいて座っていた。
 声をかける一瞬前、良く見ると、舟を漕いでいる。
 こくり、こく、と頭が落ちそうになるたび、見目にもさわり心地の良さそうな黒髪がつられて。
はらり、はら。
ひらり、はら。
『…………』
 気づけば可奈は、その黒髪に手をかけようと指先をわきわきさせ、靴音も殺して階段を上っていた。
 その顔は年頃の女子高生というより、猛獣、否、酔っ払いのエロ親父にも等しい。にやりとゆがむ口元に、現金さを絵にかいたような猫の目には、ターゲットを捕らえたトラの眼光が光る。
 燈馬君のくせに、なんと言う艶だ。ぐしゃぐしゃにかき回してやれ。
 そー、と、舟こぐ旋毛の上、がば、と鷲爪のように広げた掌をかざし。

『みずはらさんッ!!!』
『ぅぇあえッ!?
 い、いきなりなに大声だしとんじゃこのぼけぇ!!』

 自身の行動の経緯を改めて思い出しなおし、私は断じて悪くない。燈馬君が急に大声を出すのが悪い。ああもう断じて悪い! 可奈は、決意も新たに、確かに感じていた罪悪感をはるか彼方の山の奥に捨て去った。




「これ、止むの待ってたら日暮れちゃいますね……」
「うーん。今出てくとちょっと濡れちゃうけどしょうないっか! いこ行燈馬君! 
 ッせ」
「ぇの、って水原さんスタート早いですっ!!」

 土砂降りの中、校庭にまだらに現れた水溜りや小川を避け、石柱の校門へと、赤と青、二色の傘が連れ立って駆けてゆく。
 赤い傘から見える色素の薄いポニーテールが、勢い良く跳ねた。
 振り向いて見る青い傘の中、必死の形相でかけてくる黒髪の少年に、少女は雨粒を横手に受けて尚、鮮やかに微笑む。

「燈馬君おっそーい! ほらファイトッ」

 彼らの日常は、こうして今日もすぎてゆく。





 Oh….


 Oh, stagnation!









 想→可だった筈なのにどうしてこうなった。・・・ありがとうございました!
(2010/11/10掲載)