かえりこよ

wake unto






 月が高い。
 想は、己の住まうマンション一角の、自身の借りている部屋のリビングから、上空を仰いだ。
 地上にわだかまる街の喧噪に負けじと、紺色の天空に輝く白い真円は、自身を取り囲む群雲さえも煌々と照らし出している。
 リビングに敷かれた灰色の絨毯には、大きく取られたベランダ出入り口の長方形を菱形に変えた光がくっきりとかかり落ち、照明の消された部屋の奥との明暗を分けていた。
 明らかに、いびき、と呼ばれる音が、遠慮なく生まれては消えてゆく。
 想は、その音の発生源を見、ついで、絨毯にかかり落ちる光の図形の中、奇妙に間延びして形を切り取る陰の微かな揺れを、冷房の風にそよぐススキと、その先の、月に見立てた白い団子が、本来は正三角推のように盛られていた下駄付のお盆を見た。お団子のピラミッドは、形の大半を失い、不格好な姿で月に晒されている。
 その白い粉の吹かれた物体をひとつ手に取り、咀嚼。口の中のほのかな甘みと粉っぽさを感じつつ、リビングの奥、絨毯に寝ころがり、いまやいびきまでかいている可奈の元へと近づいてゆく。



『とーうーまーくーん!』
 未だ暑さの残る九月も中頃、日もだいぶ西に傾いたかという頃、想の耳に機械的な呼び鈴の音と、くぐもった声が響いた。
 彼はといえば、密かに進めているゼータ関数への考察中、ふ、と訪れた思考と思考の狭間に立ったような状態で、その音を聞き、停止、目頭を押さえつつパソコン机から離れ、流れるような動作でカメラを確認、玄関へと向かっていった。
 扉のロックとチェーンを外せば、彼にとっては輝かんばかりの生命力に溢れた人物が、片手にスーパーの袋、もう片手に、枝穂の若々しいススキを抱えて、にこにこと立っている。
『今日は十五夜でしょ? 一緒に月見しない?』
 しない? と問いかけて発される言葉に、想の意志は反映されない。あがらせろ、と、いう幻聴と、目の前の人物、水原可奈の背後に、確かにこちらを見つめる虎の姿を幻視した彼は、はて、と首を傾げた。
『あれ? おばさんどこかにお出かけですか?』
 想の中で、水原家とは、何かと年中行事を家族そろって行うという認識の上にあった。可奈の父親が刑事という職にある関係上、父の都合の悪い日は、母子揃って行事をこなす。その場に、時折、この頃はかなり頻繁に、想も招待される。本日は十五夜だから、もしかしたらお誘いという名の人員要求があるかもしれない。
 数論と数論の狭間、思考の片隅、頭の奥の方で漠然とそんな事を予想してた彼からすれば、ススキに箱型の何かに小麦粉牛乳卵、可奈の持つ荷物はおかしいものだった。
 ならばおきまりのパターンに水が差されたと考えるのが妥当。
 そんな想の疑問を受け、可奈は、はあ、と一つため息をつく。
『そ。お母さん近所の集まりで温泉旅行に行ってんの。お父さんは急な事件に駆り出されて今夜は泊まり。
 ってわけで、お月見しよ?』
 ひまだ、つき合え、そんな言外の圧力に、想は、本日予定していた箇所までの考察を諦めた。冷房、と働いた頭は、可奈の、ふくらはぎまでのジーパンと、シンプルなTシャツにジャケットを羽織った、普段よりは露出度を控えた格好に据え置きする。
 聞けば、河川敷までススキを取りに行ったとのこと。最近朝夕の冷え込みが激しい事なども、露出を押さえる要因のようだった。
 可奈は、上がるなりキッチンへと直行し、冷蔵庫の中身に頭を抱えている。お小言が少し、結局想は、可奈の、好きなことしてていいよ、の一言で、また、数論の世界に戻っている。
 その後、彼の集中が途切れた際を見計らって、夕食と、お月見が敢行された。
 お月見といってもリビングの照明を落とすぐらいのものだったが、高層マンションの最上階付近から望む月夜に彼女は満足したようで、危ないという想を振り切り、ベランダに出てビル風の強さにポニーテールをなびかせ、しばらくの間、ガラス越しでなく夜空を眺めていた。
 ベランダの手すりにのりだし空を見ている可奈の後ろ姿は、無邪気にはしゃぐ子供のよう。想もつられ、月を見に外へ出、他愛のない会話をし、小腹が空いたと月見団子をつまみつつ。
 泊まるということは、彼女の父に了承済みのようで、風呂の有無を聞けば明日シャワー使わせて、とのこと。
 今は二人ベランダに腰掛け月を眺めている。
 横に座って月をみる可奈の横顔は、特に何かを思うでもない。普通だった。
 年頃の男女、という言葉など知らないように。
 その、可奈の何でもないことを告げるような態度に、想は。

 想とて、可奈をそういう目で見たことは余りない。その事を見抜かれているか、否か。可奈の父である水原警部からも絶大な信頼を置かれている。
 彼にとって、可奈はまぶしくもあり、自分で解決するだけの何かを持っているわけでもないのに、事件や困っている人へのお節介をやめようとしない、大変危なっかしい存在。
 危なっかしいくせに、その笑みは、行動は輝かんばかりに、彼にとって酷く眩しい。
 そんな存在が、無防備に傍にいること。それは、迷惑ついで、有難いことでもあった。

でも、こういう時。
『…………』

 視線を、月でも、可奈でもなく、己の抱えた膝小僧に求める彼の胸中などしらず、可奈は月を眺めている。
 ゆるりと沸き上がったいらだちにも近い落胆に不可思議の色を見せて、想も顔を上げた。

どうなりたい、何かがあるわけでもない・・・

 いらだちと落胆がどこからくるのか。ただ彼の目の前に翻っている答えは、みずはらさんだから。
 だから、仕方がない。それが全てというように、それ以上の思考には、自ずとストップがかかった。


 月見といいつつ、大概半刻もみれば眠気が伴ってくる。 想は別段飽きる事もないが、月見の提案者である可奈は、元来の性格もあってか、想の了承をとってから、おもむろにパソコンをいじりネットゲームに興じ、それも飽きたか、何事か想との雑談を続けつつも部屋の片隅で持ってきたマンガを見ていたが、気づけば眠っていた。
 その辺りで、想も自身の体の冷えを自覚、ベランダからリビングに戻ってくると、可奈に毛布をかけ、丁度いいかと数学の考察に戻っている。



 月光はいよいよ白く、リビング奥からは既に望めない位置にあった。
 膝を突く想のとなり、いびきをかきつつも可奈は眠っている。
 その安らかな、正直何の悩みも、憂いもなさそうな寝顔に、想はふと、MIT時代に見た、ロキやエバの寝顔を思い出した。
 彼自身の研究もそうだが、時折想は、彼らの研究を手伝いに行くことがあった。研究室はいつも雑然とした整然に包まれ、大概、生活諸々の事柄は重要度の最低ランクに置かれる。徹夜などは当たり前。突きつけられる要求は高く重く、誇りと威厳と未知への好奇心が神経と体力の限界をたやすく越えさせる。
 幾度目かの貫徹明け、想がやっとひと段落して辺りを見渡すと、仮眠中のエバの横、コーヒーも飲みかけのままソファーに突っ伏し、意識をなくしているロキことシド・グリーンがいる事は、そう珍しい事でもなかった。大概先に目覚めるのはエバ、エバ・スークタで、彼女は横を見、ちょっと恥ずかしそうに想を見てから、やりかけの研究に戻っていく。
 しかし、時折、本当に稀に、ロキの方が早く目覚める事があった。

『よお……トーマ』
『おはよ、ロキ』

 そういう時彼は、想との挨拶を交わし終えてから、懐からたばこを一本取り出し、憂いとも、倦怠ともつかぬ顔で横目にエバを見、あるフレーズを口ずさみながら、研究室を出ていく。
 それは歌のようだったが、常に冒頭のみの視聴である想には、歌詞の全容など知る由もない。ロキに直接聞いてみても、ちょっと眉毛をあげて、直ぐにはぐらかされてしまう。
 曰く。
『ローレライへの嘆願書だろ』
とのこと。



 出だしは、と口ずさんでみようとして、彼は逡巡、やめた。自身で自覚はないが、どうも自分は大変な音痴らしい。可奈の寝入り具合からみても起きることはなさそうだが、万に一つ、起こしてしまうのは忍びないだろう。彼女の寝顔をぼんやりみつつ、そんなことを思う。
 彼女はよく寝ている。
 色素の薄いまつげが、微か、月の光を受けて輝き、呼気に併せてふるえていた。
 冷房の風に当たってもなお潤ったように見える唇は、月のさやかな光に妖しく光っている。暗がりに慣れてくれば、僅かな頬の紅潮と、眠る者独特の熱を感じる。
 体の下に敷かないよう避けられた色素の薄い長髪は、頭の高い位置で一括りにされたまま、灰色の絨毯に蟠り、鈍く美しく光を弾いて幾筋かの緩やかな小川を成していた。


 想の中に、記憶された声がぼんやりと甦る。
 ききなれた発音、たばこをくわえたままの、少しくぐもった響き。

『beautiful dreamer』
 
 続きの歌詞を思いだし、彼は、目の前の、可奈の寝顔に。

「wake unto・・・・・・」

 その先の歌詞を、記憶の中のロキは歌いながら研究室を出ていく。
 想は、その先を歌えるロキに、今更ながら感嘆を覚えた。研究室をでていく、エバから離れる、その行動は何のことはない照れていたのだとしても。
 夢見る美しい人よ、その先の意味をかんがえるだに、想にはその先の一言が口をついてでない。
 聞き取れる歌詞を訳すとこういう意味にとれるのだ。
『起きろよエバ、……』
 そんな歌詞を何故今、己は水原さんにささやくのか。それは、まるで。
「」
 つぶやいた言葉は間抜けな猫のよう。
 その響きがひどく滑稽のように思えて、恥ずかしさに、彼は、思わず彼女の元を離れた。主張する鼓動の音を知らぬ振り、パソコンを立ち上げて考察に戻る。眠る気にはなれず、かといって通常の意識でいることもはばかられた。数の世界を逃げ道に、簡単でいて美しい証明を幾つか脳内でシュミレートすることで、外からの刺激を一切合切切り落としてゆく。

 彼女の寝息の音も。気配も。

 記憶の中の親友の行動も、心情も。








 軽やかなメロディーが響いている。

『beautiful dreamer wake unto…』


 切り落としたはずの断片が、ゆるゆると歌い出した。

 可奈の寝顔は安らけく。

 だからこそ。



 彼の唇は、微か。



「unto



 ……me…」



水原さん、起きてください。……――――僕のために。


 個人的ソースは中学の時の音楽の先生です。(ちゃんとした参考サイト様はこちら)
(2010/09/22掲載)