僕はこれで構わない。


As an encyclopedia.




 燈馬想のメールボックスには、時折、彼の親友でもあるシド・グリーンから有意義な論文とセットで、そういった、動画が送られてくる。
 Sou Toma.いかに名誉あるマサチューセッツ工科大学稀代の天才と謳われた彼も、人間であり男だった。種の保存の行為をより華美に過激に撮った画像映像音声等に、始めのうちは赤面、わたわたと誰も居ないマンションの一室で慌てもすれば、俗に嬌声と呼ばれる随分と原始的な発生音の中、パソコン机に両肘をつき、己の親友が北欧神話でいたずら好きの神ロキ神と一文字違いで呼ばれる由縁に、頭をかかえこみもした。
 ただ、回数も重なれば慣れが先に立つ。少なくともそんな添付ファイルの数が三十を超える頃には、想は既に、親友の悪戯にも、添付ファイルにも、そこに映される行為にもなにも感じなくなっていた。視聴すると、アブノーマル、と言われる動画以外はだいだいの流れは同じで、女優か素人か、男女互いに腰を打ちつける音と甲高い嬌声がイヤホンから伝わってくる。ディスプレイには狂ったように重なり動く人間の姿が映るばかり。
 流石に、甲高い声に混じって低く興奮したうめき等が聞こえてきたときなどは全身鳥肌が立つし、添付されている動画自体、視覚聴覚的に興奮を強制する効果があるので起ちもする、が、燈馬想にとってはそれだけのこと。
 彼にとって、そういったビデオで得る興奮は、数の世界をさまよう時の期待と胸躍る心地に、遠く遠く及ばない。数の羅列の規則性や新たな解を見つけ、それを無駄なく証明出来る道筋が立った時の、あの興奮。頭に指がついていかず理論が先走り、高みへと追い立てられる疾走感。Q.E.D.を目指して進む駆ける飛ぶ超える。それはどうやら男性的な興奮にも繋がるようで、ふと股間に違和感を覚えれば、案の定。
 その疾走感、快楽こそが、想の知る最上のもの。
 しかし時折、ほんの時折。衝動的な欲求が抑えられなくなる時がある。数の世界で快楽を得ようと試みても、未知を解き明かした時のそれとは比べるべくも無く、股間は痛いし体は落ち着かない。
 そういったときは、難儀と思いながらも適当に送られてきた動画を開き、それなりで事なきを得ていた。その後の処理は後悔と不快で彩られていたが、それも二度、三度と繰り返すうちに、そういうもの、として処理されていく。
 気に、慣れとは恐ろしいものだと想は思う。
 そして今回、想は、似たような事情でメールボックスの普段は隔離してあるフォルダの中から、適当に未視聴の映像を再生させた。使い勝手のいい動画再生用のツール、黒い画面が光景を映し出す。
 と、彼は、珍しく沈み込む黒いデスクチェアから身を乗り出した。
映像は日本のもので、行為の最中を映している。真っ白なベッド、柔らかそうな枕。そこに色素の薄い長髪が緩やかに流れている。画面の、真正面に映る女性の歳は、おそらく想とそれほど変わりがないだろう。少し色素の薄いポニーテールは幾筋か白い枕に、上気した肌に流れ、汗にまみれて張り付いている。
 女性は切なげに息を荒げ、潤んだ色素の薄い瞳で画面の外の相手を、そういったコンセプトの元作られた映像なのだろう、見つめていた。時折苦しそうに眉を寄せ、相手の男優の腰使いに堪らずといった様子、白い喉をのけぞらせて原始的な音を零している。のけぞる喉のなまめかしい紅潮、柔らかな二つの胸の膨らみが動きに従いゆれていた。淡い色の頂はツンと立っている。
 髪を乱し、声を乱し、身体を揺ぶられながら、彼女は、恥ずかしい、恐らく一般的に男性が興奮すると思われる言葉を紡いで、時にわめき泣いていた。
「……ッ!」
 その、細い喉か、やわい肩か、どことない雰囲気か。
 目の前の女性は、ひどく想の知る少女に似ている。
 もっとも動画内の女性は知人よりは若干垂れ目であり、唇が分厚い。確かに美少女と数えられる容姿をしていたが、彼の知る少女、水原可奈とは別の種の美人だった。
「、ず、らさん」
 しかし、掠れた声は喉から絞り出る。
 体のつくりだろうか、肌の白さだろうか。想には一瞬、目の前の女性の顔が、彼の良く知っている少女に重なった。シーツをぐちゃぐちゃに掴む手、時折背けられる頬の輪郭、色素の薄い長髪が、汗に塗れて肌を伝う。
 すぐ眼前、見下ろす箇所から見上げてくる、普段はトラのような光を宿した眸が、快楽に潤んで切なげにゆれていた。
 唾液に濡れた唇が、荒い息の中から。

と…ぉま…くん

 気付けば彼は、動画のクローズボタンをクリックしていた。画面は元のデスクトップを映し出している。開きっぱなしのメールツールの奥には、何の変哲もない青。購入した時と変わらぬ企業のロゴが覗く。

とお、ま、くん

 幻聴に、想は額に手をやる。冷えた手の温度と額の温度の差異にも気づかず、視線をさまよわせた。幾つかの情報が視覚から飛び込んでくる。紛れて、先ほどの動画も脳内にあった。動画に映っていたのは、可奈とは違う人物。少し似ていたけれど、全く違う。
 普段ははきはきとした気風のいい声が、ぐずぐずになったクリームのような不確かさで生れ落ちた。

みずはらさんのそういった

 想は、可奈とそういう間柄ではなかった。いまだ想の耳にこびり付くのは幻聴、もしくは動画の空耳。そんなものを聞くだけの何かを、己は彼女に向けているのか咄嗟横を向き、考える時の癖のようなもので口元を片手で覆う。
 半開きにしていたズボンの前身からは、彼自身が露出していた。思考に囚われたそれは所在なさげにうな垂れている。
 この日は、それで打ち止めとなった。

 翌日の彼は普段通りだった。なにを考えているのかわからない表情で登校し、教室に入りクラスメイトの幾人かと朝の挨拶を交わす。それから部活で先に来ていた可奈と挨拶を交わし、席につくと机の中を整理し始めた。本日必要なものと、必要でないもの。時間割は決まっているのでこの先三日程使わないと思えるものを鞄の中に放り込んでゆく。終わると、プリントしてきた厄介な論文を精査し、そうこうしている内にホームルームが始まった。
 四限までは通常通り過ごし、購買でパンを購入、今は教室の窓から見上げていた空の真下に来ている。風の良く吹きぬける屋上。陣取りしていた者を尻目に、更に先、鉄製の階段を上ってゆけば誰もいない。この学校で一番空に近い場に座り込むと、パンを牛乳で流し込みざま持って来た小型のノートパソコンを起動させた。自身の影で陽を避け、無線ランからネットの世界へ飛び立てば、今現在居る場の感覚はあっという間に薄れていく。
 現実とネットとが混在し想の意識にあった。けれどマウスパッドに置いた手を躍らせている内、現実が不必要と判断されがちになる。完全に意識を持っていかれた、その時。
「ぃよ!」
 色素の薄い前髪がさらりと鼻先をすり抜けた。色の薄い両眼には、有り余るばかりの光りが映りこんでいる。トラのような眼光は、猫科特有の狡猾さを含んで尚好奇に光る。視覚した途端、想は今までいた場所から強引に引き戻された。巻き込まれるような速さに目眩がする。
 彼の鼻先、やや挑発的に口角を持ち上げた少女の、小柄な顔がある。のけぞったのは半ば反射だった。鉄製のはしごを上ってきた音すら感知できなかった脳が、遅れて辺りの情報を読み取りはじめた。ちらりとパソコン画面の画面を確認すれば、もうすぐ昼休みが終わる時刻。
「……。
 水原さん。授業は・・・」
 想は、感じた驚きから声を何とか絞り出すと、五限に予定されていた授業を思い出し、ジト目で、水原さん、彼女を見る。五限は数学。可奈は数学が大の苦手とくれば、推理など必要もない。
 彼女、水原可奈は、まあまあ固いこと言うなって、と調子よく笑うと彼の横にすとんと腰を下ろす。んー、と全身を伸ばす動作は、陽だまりの猫のよう。
 と、思い、想は思いなおした。横手の人間は、いかに女子高生のなりをしていても猛獣。トラである。
 まあしかし。とも、彼は思う。中々どうして、のんびりしている彼女は可愛い。向こうで一時期世話していた赤毛の猫だ。そう感じるのは、トラが猫科だからかもしれない。 
 そんな想の感慨など露知らず、可奈は一通り伸び終わると、気持ち良さそうに、はあ、と息をついた。
「こーんなに天気好いんだから、ちょっとぐらいサボったってバチはあたんないと思うのよ。
 それにさっきカマキリ見かけた時おなか痛そうだったの。
 で、自習なら、日当たり良くてあったかい場所の方が良く寝れるじゃんよ?」
 にこにこと笑って同意を求めてくる可奈が、その実同意以外を望んでいないと、想は、可奈の後ろに、ぬ、と現れたトラに頬を引きつらせた。
 想の中で、否、恐らくはクラスメイト一同首を縦に振るだろう。水原可奈は無敵である。その傍若無人さは、例えば寝坊を事故と片付ける事を周りに強要する辺りに良くあらわれている。殴られ蹴られた物体はもれなく損傷を負わされる。
 彼女の怒りから逃れる為だけに、教室に核シェルターまで配備されていた。誰が何でどうやって作ったのかは決して突っ込んではいけないらしい。それでも囁かれる一説には、ある期間集中的に学校の壁やら廊下やらを破壊されて困った学校側が、どこぞのどえらい大学出の一生徒に苦情を申し立てた結果、一晩にして核シェルターが完成していたとか。が、真実は闇の中。深淵を覗き込むものはまた深淵に覗き込まれる。
 ともかく、水原可奈。彼女の暴力は、時にクラスの出し物等に強制参加させる為の抑止力としても期待されていた。又、彼女の性格に全く歪みがなく、明るく頼りがいのある性格などから、人望も厚い。行動力もあり、それを支えるだけの体力も備わっている。運動神経と片付けられないほど武術にも秀でていた。何より。

本当におせっかいで、友だち想い。

 その認識に思い至ると、想はいつも、何を想う時よりも胸の中が温かくなる。誰よりもおせっかいで、人一倍友だちの為に行動する、そんな可奈だからこそ、想は何度手ひどい目に合わされても、彼女と距離を置こうとは思えない。

まあ、ていのいい辞書とか思われてるんでしょうけど。

 それでも、そんな想のことですら友だちと、可奈は本心から言い切るだろう。理屈などは抜きで、そう、自分ですら思えるほどの破天荒さを、想は好ましく思っていた。彼女が率先して突っ込んで行った面倒くさいことにだって手を貸す。彼女の父親の手助けも、時にする。

水原さんが困っているなら。
困らされているなら。

……捨て置けない。

 そんな彼女を、性行動の相手としてみているからあんな想像が頭の中を駆け巡ったのか。昨日から時折過ぎる心の声は冷静だった。想が己に突きつけた議題の解は、彼の中に見えない。しかし、誰かの中にあるとも思えなかった。それは、燈馬想という人間の問題でしかないのだから。
 そんな事をぼけ、と考えていた腹の辺りから、なんじゃこりゃ、という素っ頓狂な声があがる。想は現実に立ち返った。
「なにこれ? 英語? う、わー。わーけわかんねー。
 ってかこれ人間の話す言葉?」
 どうやら呆けていた想を無視して勝手にノートパソコン画面を覗き込んだらしい可奈が、うげー、と蛙が潰れたような声を出している。
 彼女は、想のすぐ横手から上体を横に倒すようにして、まるで想のかく胡坐の上に横から倒れこむような格好でパソコン画面を見ていた。色素の薄い髪は彼女の肩から彼の腹と下腹部に流れ、丁度股の間でまどろんでいる。想がその事を意識すれば、僅かなこそばゆさが股間に生まれた。しかし、それはこの場には相応しくないだろう。彼はそのこそばゆさ、恥ずかしさを切り捨てる。
 無謀にも解読を試みたのか、可奈の頭の周りでは小人がはっぴに鉢巻姿で踊っていた。賑やかなお囃子にまじり、陽気な唄が聞こえてくる。とさのこうちのはりやまばしでぼうさんかんざしかうをみたよさこいよさこい。
 つまりちんぷんかんぷんであるらしい。固まっている可奈の顔がなんとなく想像できで、想はすこし可笑しな気分になった。数学難問の一つ、乱暴に真理への道をこじ開けられた四色問題に対しての、学術的面からの画期的な論文が発表された、その原文ですよ、と。素直に伝えようとして。
 ふと。
「ゼータ関数について、興味深い論文が発表されたと聞いたので、ロキに頼んで原文を取り寄せてもらったんですよ」
 気づけは、そんな事を口走っていた。
 ぴくん、と。彼の腹と数センチも離れていない可奈の背が揺れる。
 想は、彼女のその反応に、喩えようもないものが内から湧きあがってくるのを感じた。過ぎて喜びだと分かる熱が、胴の内から体中にいきわたる。しかし彼はそれで満足。パソコン画面を別のページに切替えようと、マウスパッドにおきっ放しだった指を動かそうとしたが。
「……っへー。」
 一瞬誰の声か分からないほど乾いた音が響いた。同時に、思わず指を挟みそうな勢いで小型ノートパソコンが閉じられる。

「み、水原さ」
「ひとが気持ちよく寝ようとしている横で、何辛気臭い事やろうとしてるのよ。
 ハイ没収!」

 可奈は壮絶に機嫌のよろしくない時に出す声で、想のパソコンを胡坐の上から取り上げると、ちろり、と。ここで始めて想を振り返った。その目には、眼光鋭い猛獣が潜んでいる。
 その顔を、ふい、と明後日に向け。
「わあ!?」
 想にぶつかる様な勢いで彼のすぐ横に寝転がってしまった。間一髪避ける事に成功した想は、思ったよりも強い彼女の反応に、困り顔。

ゼータ関数って、言っただけじゃないですか。

 四色問題の論文精査を依頼されていた想は、ノートパソコンごと取り上げられた事に、今更後悔していた。この問題については、大方のことは知っている。しかしまだ情報が足りない。だから調べている途中だったのに。だいたい何故そっちの専門家でもない僕が精査しなきゃいけないのか。国際電話で謝り倒すMIT時代の知人の声を思い出しつつ、早く終わらせる気でいたのに、とほとほと困り顔。
 件の黒い物体は、可奈の胸元、その豪腕できつく封印されていた。クロスされている鎖は、今にもノートパソコンにヒビを入れそうだ。
「水原さん。返してください」
 想が頼んでも、可奈は取り合わない。
「やあーだよ。
 温かいんだもん。ちょっと借りとくわ」
 想のすぐ横に横たわる可奈は、きつい表情のまま目を閉じている。口元は真一文字。真っ直ぐに伸びた脚と、胸元で意図されず腕を交差した姿は、まるで棺に眠るエジプト王のようだった。因みに、エジプトについては、想も人並み以上には知っているが彼の従兄弟の方が数段詳しい。
 従兄弟なら、今の状況をどう思うだろうか。想は今日本にいる、ハーフの子供の事を思い浮かべた。知人が、従兄弟の大切な物を頑なに抱き締めてエジプトのミイラ宜しく横たわっている姿を。

まあ、ミイラじゃなくて生きてるんですけども。

 ふん、と言わんばかりの顔で、可奈は頑なな態度をとり続ける。水原さん、水原さん? 想が呼びかけても返事はない。
 のびのびとしたしなやかな四肢は、彼女自身の意志によって石の様に動かない。顎を上げて目を瞑り、体を真っ直ぐに横たえ、胸元に手を寄せる姿は、欧州の貴族階級の女性が棺に入っているさまにも、見方によれば見えないこともなかった。もっとも、怒れるトラが威嚇している姿が二重写しに見える辺りで淑女の面影は粉砕されている。
 オレンジ色の色合いが強いチェックのスカート、プリーツの裾から伸びた白い脚が、紺のハイソックスに包まれ使い古された上履きに繋がっていた。想の黒いノートパソコンに、彼女の胸元、赤いリボンが風に揺れる。
 白いブラウスに包まれた上半身は、光りにうっすらと肌の色を透けさせていた。柔らかな色彩に、黒く薄っぺらい箱のコントラストが酷く奇妙。
 柔らかそうだった。
 彼女の体は、きっと、いま降り注ぐ日差しよりも温かい。
「…………」
 想は。己の口の中が、喉が、急速に乾いている事に気がついた。それが、当初性行動を過激に撮った映像を見たときに覚えたものだと思い出す。のどが少し、痛い。
 普通なら、と、思った。普通なら、これは多分据え膳と呼ばれるもので、覚えた奇妙さに任せて男性は横たわる女性に手を出すのかもしれない。唇が柔らかそうだとか、服を通して尚伝わってくるからだのやわい線や、その温度を確かめてみたくなるのかもしれない。
 想は、漠然と思う。思うだけで何もしない。というのも、この機に、と、可奈に圧し掛かる己をシミュレートしてみたが、果てしない違和感と悪寒しか湧かず、幾度やり直してもぶっ飛ばされる光景しか思い描けなかったので。

猛獣使いじゃないしなァ・・・

 可奈が、もし、万が一、空が降って来る様な心境の変化でもあって、そして過程は良く分からないがともかく結果論、想に性行動を求めてきたなら、想としては、応えるのはやぶさかではなかった。ちょっとだけ興味も無きにしも非ず。しかしそこに愛だの恋だのが絡んでくるのか、想には解りかねる。少なくとも想からは、そういった事を彼女に求める予定もなく、必要も無いと感じている。

だって多分この人は、“便利な辞典”を手放さない。

 そう、思える要因が沢山ある事が、嬉しかった。
 想は、すぐ傍に横たわる可奈を改めてみる。彼女の怒りも静まったか、あるいは本当に寝てしまったのかもしれない。その顔は秋の日差しを浴びて穏やかだった。
 色素の薄い睫に、光りが透けて見える。産毛も例外でなく、髪の色も元々薄いせいか、光っていた。可奈は光の中にいる。静かな呼吸の音。静かな屋上。教員の声も生徒の声も、辺りを走る車の音さえ遠い。
 想は、吹く風の僅かな冷たさに、無言で自身のブレザーを脱ぐ。
「少し冷えますから、これもどうぞ」
 可奈にふわりと掛けてやると、穏やかだった彼女の口が、何か言いたそうにうにうに動いた。声はないが、眉毛の辺りが少し歪んでいる。
「パソコン、壊さないで下さいね?
 ロキに頼まれた研究の手伝いの記録も、データも、その中にあるんですから」
 予備を取り忘れたままなんです、おためごかしにそう伝えれば、ちろり、と可奈の片目だけが開く。
「壊さないわよ。
 ……借りてるだけ。」
 燈馬君は、さむくないのかにゃー、そう言うと、可奈は開いていた目も閉じた。気持ち良さそうな顔で、想の掛けたブレザーの中に包まる寸法か、横を向き、猫のように丸まった。膝を折り曲げ腕も曲げて、想のかけたブレザーの群青に、少し苦労した様子で引っ込める。その過程で、ひょい、と想のパソコンの黒が、明らかに放り出されたように覗いたが。
 変な音もしなかったので、想は苦笑しただけ、パソコンを取り返そうとはしなかった。
 もぞもぞ動いていた可奈は、居心地のいい場所を見つけたか、更に丸くなると寝息を零しはじめた。
 その音がもう半刻も立てばいびきに変わる事を知っていつつ。
 想は晴れやかな顔で高い天を見上げる。
「おやすみなさい。水原さん」
 口に出せば、眠気に溶けた声がおやすみーと返った。
 彼は微笑む。
 秋晴れの青は、どこまでも高く、明るく澄んでいた。



 明らかに趣旨と外れているだろう参考書は『フェルマーの最終定理』です。その2。
 11月1日に書きあがりましたが、原作について、今はこんな感じで落ち着いています。
(2011/12/04掲載)